資本主義の起源

佐伯(1993)は、「資本主義」を「人間の欲望のフロンティアを開拓し拡張する自己運動」だと捉える。つまり、資本主義は、人間が生存を維持するのに必要なもの以上のモノを生みだしてしまうという意味での「過剰」を、大規模な浪費(=消費社会)を作り出し、拡大させることで処理しようとするシステムだというわけである。このように資本主義を捉えるならば、一般的にいわれるように資本主義の始まりをイギリスの産業革命を中心にして考える必要はないという。では、資本主義の起源はいつなのだろうか。


まず、資本主義の経済は、一国の単位で論じるべきなく、国境を越えた「世界」を単位として論じるものだという。そういう意味で、ウォーラーステインは16世紀から資本主義の「世界システム」ができたと主張しているという。これを端的にいうと、16世紀からヨーロッパの人たちが大西洋を越え、世界に出て行くことでヨーロッパ、アジア、それに新大陸を結ぶ交易ネットワークが形成されたことをもって「世界」というシステムができたというのである。


しかし、佐伯によれば、16世紀以前の中世から近世にかけての世界の経済文明の中心はイスラム圏からインド、中国の南東部を含む東南アジアにあったということに注意する必要がある。当時のヨーロッパの地中海貿易は、インド洋を中心とする中東−南アジア交易圏の「周辺」としてそこにつながっていた。つまり、インド、中国という文明の中心のまわりに、東南アジア、イスラム圏、ヨーロッパが配され、その相互交流から国際商業ネットワークが形成されたいたというわけである。その交易の中心をなしていたのがイスラム商人であった。これらの交易の対象となる財宝や物産にあこがれを持った後進地域ヨーロッパが、15世紀後半にいささか強引なかたちで新規参入したというのである。


喜望峰の発見によりポルトガル人、スペイン人が積極的に交易に参入し、その後17世紀に入るとイギリス、オランダが東インド会社を設立するなどして参入してきた。それにより、インドの木綿、染料、こしょう、南アジアの香辛料、中国の生糸、絹、陶磁器などがヨーロッパの上流階級の欲望を刺激し、消費ブームを呼び起こした。しかし、ヨーロッパは自らの旺盛な需要の見返りに輸出するものを持たなかったため、新大陸から「金・銀」を略奪した。同時に、金銀という財宝そのものも欲望の対象となった。代わりに、ヨーロッパから唯一提供できる毛織物を新大陸に輸出した。


このように、ヨーロッパの資本主義は、ヨーロッパの外にある文明(アジア文明)に対するある種の「欲望」につき動かされたとともに、もうひとつのヨーロッパの外にある文明(新大陸の金)によって可能となったと考えられる。つまり、資本主義は、もともと異質な文化圏、経済圏が交差することによって発生したのだと佐伯は説明する。


17世紀のイギリスでは、ヨーロッパで入手不可能で新奇な嗜好品、贅沢品への欲望が爆発し、ファッションが流行し、消費ブームが巻き起こった。その対象の1つの綿製品の工業が、輸入代替としてイギリスで行われるようになり、生産量が飛躍的に増大したのが産業革命期である。それにより、イギリスがインドから綿織物を輸入する必要がなくなり、世界の経済の構図が大きく変わってしまった。イギリスは綿工業の原材料である綿花を新大陸に求めるようになり、その見返りがアフリカから連れてこられ、アメリカの綿花プランテーションで働かされる奴隷であった。そして綿製品はアフリカに輸出されるという三角貿易が形成された。


さらに19世紀には、インドがイギリス綿製品のマーケットとなり、それをもってインドでアヘンを栽培し、そのアヘンを中国に持ち込んで見返りに大量の茶や陶磁器を輸入するという別の三角貿易が形成された。このようにして、17、18世紀のイギリスはアジア、新大陸の物産の消費主体であったのが、19世紀には海外に市場を求める供給の主体となったのだと佐伯はいう。


産業革命以降、保護主義によって産業が育成されると、まず自国の消費者の需要を自国で満たそうとし、次に過剰生産物を海外でさばこうとする。イギリスに続いてアメリカ、ドイツ、日本が急速な産業主義を遂行し、その結果、世界史でよく知られた「帝国主義」の時代に突入したのだというわけである。