「向こう側」の哲学・哲学は論理的か

私たちの目の前に世界は、世界そのものではない。古田(2014)は、人間の心にとって自分の外にある物体は、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚といった5つの感覚器によって切り取られたイメージの集合体だという、バークリの考え方を紹介している。異なる感覚器から得られるイメージにはまったく共通点がない。たとえば、春の木々のすがすがしい匂いと、眼に入る茶色の幹とは、似たところが少しもない。これらが集合して「木」のイメージになるという。


こういった、人間の心がとらえる物のイメージの集合体はあくまで人間独自のもので、他の動物が切り取る環世界とは異なっていると古田はいう。感覚器が異なれば、別のイメージが割り込んでくるからである。動物ごとに、感覚器によって切り取ることができる世界は限られている。そういう世界を環世界とよぶが、人間の環世界を「こちら側」だとすれば、物自体には、人間が人間の感覚器では切り取ることのできない、物の別の側面たちの集合体がある。古田は、人間がおのれの感覚器では切り取れなかったこの世の対象の集合体を「向こう側」と呼ぶ。


古田は、この「向こう側」の哲学を極めた近代の西欧人が、その科学力によって世界を支配した、つまり近現代の世界をつくりあげたのだと指摘する。


ちなみに、多くの哲学書は論理的ではなく、むしろ、論理的な哲学など見たこともないということを古田は示唆する。そもそも、人間が知覚できない「向こう側」のことを含めて記述しているのだから、論理的であるはずがないというわけである。


では、なぜ哲学は一般的に論理的だと思われているのか。それは、哲学書が難しく書かれているので、何を言っているか読み手が易しく内容を読み解かなければならない。その読み解く過程が論理的なのだという。つまり、読み手に論理的であることを強いるのが哲学だというのである。哲学者がわかりやすく書けばバカバカしく見えてしまうので、わざと難しく書くことにより、特別の思いを盛り込みたいという欲望をみせ、なんとか彼らの説得したい筋書きに寄り添う気になってもらおうとしているというわけである。