現代思想におけるコミュニケーション的転回とは何か

哲学・思想では、「人間の知の基盤(拠り所)はいったい何か」というような根本的な問いが探求される。高田(2011)は、現代思想においては「コミュニケーション的転回」が起こっており、例えば、私たちの世界認識は個人で行われるのではなく、多数の人間の感覚器を総動員して(個人の直接経験が集約されて)行われるものだと考えるようになっているという。言い換えるならば、「個人知」から「共通知」への転回が起こっているということである。高田は、過去の思想の歴史を振り返ると、個人知から共通知への流れは、「超越論的転回」「言語的転回」「解釈学的転回」「コミュニケーション的転回」の4つの転回を経てもたらされたものだと説明する。


まず、現代思想の主旋律となっているのが、カントによる「超越論的転回」だと高田はいう。なぜならば、この「超越論的転回」が思想界において現代までにつながる大きな方向転換であったからである。これ以前では、世界における存在物・実在物の側から見て、私たちの身体や脳などの中にどのように「認識」が発生するのかを問うていたのに対し、超越論的転回では、認識の側から見て、「存在」がどのように発生するのかを考えるようになったからである。つまり、私たちが感覚器を通じて認識することができる「仮象」をもとに、私たちは理性の働きによって「モノそのもの」「実在」を形成するわけであるが、そこに「飛び越え」「超越」がある(なぜならばモノ自体は認識できないから)という考え方である。


次に、フレーゲソシュールの思想を源流とする「言語的転回」によって、それまで「モノ中心」「物質中心」の世界観のもとで思考を繰り広げてきた哲学が、「コト」「事実」を中心に置くという新たな枠組みの中で思考を展開するようになったと高田はいう。言い換えれば、「モノ」が世界認識の中心とされていた状態から「言葉」に中心が移り、「世界認識の視点の中心は、モノにではなく、言葉にある」ということが指摘されたというわけである。モノは、人がそれを認識し、名前をつけ、価値を付与することによって初めてこの世界に登場する。よって、モノを発生させているのは、人であり、心であり、社会であり、価値であり、事実(=コト)であるというわけである。ヴィトゲンシュタインによれば、「コト(=事実)」は言葉によって表現されうるものと同じである。この事実を支えているのが、言葉であり、言葉によって紡がれた価値の体系である。


さらに、ガダマーの解釈学を機とする「解釈学的転回」によって、言葉に付随する意味や価値は、それを発する側(例:作品の作者)によって生み出されるのではなく、それを見たり聞いたりする人間の側に発生するものだと考えられるようになったと高田は説明する。例えば、ガダマーの「再生産的解釈」の説明によると、作者が自分の思いに基づいて何らかの「意味」を生産し、それを作品(テキスト)に込めるのであるが、それを受け取った側の人間は、別に新たな意味を「再生産」する。ただし、受け取った側が勝手に意味を生産するわけではなく、テキストが制限もしくは規範として機能し、その枠内で再生産が行われる。つまり、解釈学的転回では、意味や美や価値をある人間が創造し、それが他の人に伝達されることによって広がるという考え方から、意味や美や価値とは、表現を受け取る読者や鑑賞者や受け手の側において発生するということを明確に示したのである。


最後に、アーペルに代表される「コミュニケーション的転回」によって、個人の認識(個人知)を基礎として「共通知」が形成されるプロセスに着目されるようになったと高田は指摘する。つまり、「意味の生成の場」としてのコミュニケーションを重要だと捉え、それを思索の基礎に置く考え方へとシフトしたというわけである。つまり、言語的転回が「言語を基軸とする」考え方へのシフトを示しているのに対し、そこから一歩進んで、「コミュニケーションを基軸とする」という考え方にシフトしたのである。言葉を基軸であり大事であることには違いないのだが、言葉の意味はあらかじめ確定されているのではなく、コミュニケーションによって生成・調整されるというわけである。つまり、言葉を機能させ、意味や価値を生成しているのは、言葉そのものではなく、コミュニケーションである。コミュニケーションこそが、意味生成の場だというわけである。