現象学とは何か

私たちは、主観でしか世界を認識することはできない。自分の外側に飛び出して、自分を含む世界を「客観的に」眺めることなど不可能である。しかし、現在支配的な諸学問や諸科学は、後者の「あり得ない」客観性を前提としているものが多く、中でも、数学や論理学は、それが人間そのものの存在の有無に関わらず普遍的に成立することが前提とされており、世界を理解するうえで最も基礎的で「本質的な」学問のようにも思える。しかし、そのような学問が本質的であることがどうして分かるのだろうか。これに関して、フッサールの提唱した現象学は、私たちが認識できる「現象」こそが、数学や論理学を含むすべての諸学問/諸科学を基礎づけるという考え方を前提として提唱された哲学だと言われる。これはどういうことであろうか。

 

谷(2002)によれば、フッサールが提唱した現象学は「現象」についての「学問」であるが、ここでいう現象とは、「諸現出」と「現出者」を含んでいる。端的に言えば、フッサール現象学は、現出者と諸現出との関係を扱う学問である。現出者の同一性は、感覚・体験される諸現出の多様性が「突破」されることで知覚・経験されている。例えば、現出者を「正方形」とするならば、私たちには、見る角度などによって、それが平行四辺形として感覚・体験されたりする。これが「諸現出」であり、諸現出は見る角度が変われば異なる形として感覚・体験されるから、多様である。しかし、その多様な諸現出は、それらを媒介して(突破して)「現出者」が知覚されるという本質的な相関関係を示している。

 

上記のような経験を「直接経験」という。フッサールは、諸現出の体験を媒介にして(突破して)現出者が知覚されるという構造を見出したわけだが、この媒介・突破の働きが「志向性」である。フッサールは、諸学問の「下」には、直接経験=志向的体験があり、諸学問はそこから基礎づけられなければならないと考えた。そのためには、直接経験=志向的体験を、その外部から眺められるという思い込みを中断(エポケー)して、これの「内部」に還元せねばならない。現象学は、「下」と「内」からの哲学であり、直接経験=志向的体験こそが、すべての学問/科学の基礎だとフッサールは考えたのである。以下において、諸学問の性質をもとに、これをもう少し敷衍して説明しよう。

 

そもそも、近代の自然科学が数学に依拠して発展したように、諸学問/諸科学は数学を含む意味での「純粋論理学」に基礎づけられていると考えられる。フッサールによれば、数学や論理学は、いつでもどこでも妥当するという理念的・本質的で普遍性・必然性を持つ「アプリオリ」である。一方、心理学や自然科学は、ある時やある所でのみ妥当する実在的・事実的で、個別的・偶然的でもある事実学という意味で「アポステリオリ」である。アプリオリな数学や論理学は、アポステリオリな他の諸学問を基礎づけることができるが、その逆は成り立たない。だから、諸学問/諸科学は純粋論理学に基礎づけられているといえる。

 

そしてフッサールは、この純粋論理学が、さらに直接経験=志向的体験から基礎づけられると論じたわけである。すなわち、本質学における「真理」がどうして真理といえるのかといった本質の理解は、直接経験=志向的体験から得られるということなのだ。簡単に言えば、アプリオリ=本質は、経験(直接的経験=志向的体験)から抽出されるフッサールはいう。経験は、アポステリオリな成分だけで成り立っているのではなく、アプリオリな成分(あるいは少なくともその先行形態)も含んでおり、「直観」が、この直接経験=志向的体験からアプリオリな成分を抽出してきて、それを論理的なものへと仕上げるのである。では、アプリオリなものは直接経験=志向的体験のなかにどのように含まれており、それをどうやって抽出するのだろうか。つまり、アプリオリなものが、直接経験/志向性にどのように含まれるかが問題となる。

 

フッサールは、数学や論理学が人間の心理構造や心理作用の規則性といったものに基礎を持つと考える「心理主義」を否定した。なぜなら、心理主義をとると、人間以外の生物や別の心理構造を持つ人間にとっては別の数学や論理学が妥当することになり、それではアプリオリな学問とは言えないからである。かつてガリレイは、自然の中に幾何学図形があるということを述べていた。しかし。よく見れば、自然の中に完全な幾何学図形などない(と人は反論するだろう)。そこで逆に、カントは幾何学の起源を「私たち自身」に移した。つまり、私たち自身にあらかじめ備わった感性(直観)の形式として「空間」を設定しておいて、そこから幾何学を導き出そうとした。しかし、この考え方は一種の心理主義である。これをベネケという著者が批判し、フッサールも同調したと谷は解説する。幾何学は自然のなかに(あらかじめできあがって)存在しているわけではないし、私たち自身の中に(あらかじめできあがって)存在しているわけでもない。フッサール的に見れば、幾何学は、自然と私たち自身のいわば「あいだ」で成立するというのである。

 

フッサールの分析によれば、ユークリッド幾何学ニュートン物理学は、直接経験=志向体験から成立する。あるいは「生活世界」的経験から成立する。生活世界には、まだ自然科学的な意味で「客観的な」幾何学図形はないし、幾何学に対応する「客観的な」空間(や時間)もない。しかしそこには、先客観的な空間(や時間)がある。カントはこうした先客観的な空間(や時間)を知らなかったため、ユークリッド幾何学ニュートン物理学の客観的な空間概念や時間概念を前提としてしまい、それと対応するような「感性の形式」が主観的にアプリオリに備わっているとみなした。これは、根源的なもの(先客観的な空間や時間)を見落として、派生的なもの(ユークリッド幾何学などで用いる空間・時間概念)を前提とする「本末転倒」の考え方だと谷は説明する。

 

事象内容を持つ質料的本質は、3領域「物質的自然(物理的なものが主役)」「生命的自然(心理物理的な生物が主役)」「精神世界(物理的な物ではなく道具や文化を対象とする人間が主役)」に分けられる。この関係性については、物質的自然は、生命的自然なしにもありうるが、生命的自然は、物質的自然なしにありえない。また、生命的自然は精神世界なしにありうるが、精神世界は生命的自然なしにはありえない。このように、生命的自然は物質的自然に基づけられており、精神世界は生命的自然に基づけられているという、物質的自然→生命的自然→精神世界という基づけ関係が見出される。

 

しかし他方で、態度という視点で見ると、私たちが最初に経験するのは「物質的な物」ではなく、鉛筆や歯ブラシといった道具であり、その後ではじめてそららを物質的な物とみる見方(態度)を身に着ける。つまり、私たちは、物質的自然に対応する「自然科学的態度」を取る以前に、精神世界に対応する「人格主義的態度」において生きている。人格主義的態度における道具や人格こそが、根源的に経験されており、自然科学的態度における物や心理物理的な生物は、派生的に経験されているにすぎない。よって、自然科学よりも人格主義的態度の精神世界すなわち「生活世界」のほうが、自然科学よりも先行し、前者は後者から派生する。生活世界こそが自然科学的領域の始原(期限/根源)である。フッサールによれば、精神世界/生活世界こそが根源的であり、物質的自然や生命的自然は派生的なのである。

文献

谷徹2002「これが現象学だ」(講談社現代新書)