数学が自然科学と袂を分けた歴史的事件

吉田・赤(2013)によれば、長らく数学はパスカルのいう「論証的方法」にしたがっているがゆえに厳密な学問であると信じられていた。論証的方法とは、自明のものを除くすべての「言葉」を「定義」し、また自明でないすべての「命題」を「証明」しつくすという立場である。しかし「自明なもの」は、場所と時代を超越したものでないかぎり、数学は厳密な学問ではありえないことになる。これは「数学とは何か」という根本的な問いにつながるものである。「自明なもの」が、自然現象の経験に基づくものであれば、数学というものは、われわれの住むこの空間についての真理を探究する自然科学の一部ということになる。


この「数学とは何か」の見解に関する「革命」もしくは「歴史的事件」は19世紀の初めに幾何学の世界で起こったと吉田・赤は解説する。ロバチェフスキとボヤイが、エイクレイデスによる「原論」の5個の公準(公理)(自明なもの)の1つである平行線の公準を、それと「反対の」定理に置き換えて、新しい幾何学を作り上げてしまったのである。これでは、入れ替える元となった「平行線の公準」が「自明なもの」という仮定にのっているのみでほんとうの真理かどうかはわからない以上、われわれの住む空間についての真理を探究するという意味においては、これまでのエウクレイデスの幾何学と、ロバチェフスキの幾何学のどちらが正しいかはわからないことになってしまう。


これについてヒルベルトが下した見解がいわゆる数学における「コペルニクス的転回」であった。それは「数学は自然科学である必要はない」ということである。ヒルベルトによれば、「数学は現象世界との対応におけるその真理性を追求するものではない。」「数学は単に、矛盾を生じないという条件のみを要求された仮定から形式的に結論を導いてゆく中小理論の建設をもってその責務とし、それ以外になんらの目的をもたないもの」である。これを一言でいえば、公理・公準は、パスカルの「論証的方法」でいうところの「自明なもの」とか「真理」である必要はなく、単なる「仮定」で十分であることになるのである。


そうなってくると、数学の論証を展開していくうえで「定義」も必要ではなくなってくる。つまり、定義を与えない対象に関するいくつかの命題を真なるものとみなして出発するときに、いったいどれくらいのことが必然的に出てくるかということを追求するのが数学の本領なのではないかとヒルベルトは言うわけである。幾何学でいうところの「点」や「線」、三段論法でいうところの「人間」「死ぬ」「ソクラテス」などをあえて定義しないほうが、議論が一般的になるのではないかということである。


繰り返すと、ヒルベルトによれば、数学とは定義を与えないいくつかの用語についての若干の命題(公理)を真なるものと「仮定」し、それに基づいて形式的に推論を進めるものである。ゆえに、数学は科学的真理を追求するものではなく、無内容な対象についての形式的、抽象的な理論になる。以後、数学では、いろいろな公理を取捨選択し、それをさまざまに組み合わせることによって数多くの理論を形式的に導くことになった。これらは「無内容」であるから、「事実と合っているか」という問題からはまったく自由である。数学は、仮定の上に立つ理論を追究するものなのである。


上記のような考え方は、数学において「数」とは与えられるものでなく、人間が作っていくものであるという考えにつながる。そして、そのような考え方に依拠して出てきたものの1つが、虚数複素数である。これらはあくまで記号的表現であり、その記号が持っている自然的意味(例:iは2乗すると-1となる数)とは別物で、まったく違うものであってもかまわないというわけである。加減乗除でさえ、例えば「和」とか「積」は何であるかという意味を問う必要はなく、特定の条件を満たす公理として定めればよいということになる。


ただし、このような数学の特徴がゆえに、たまたま数学で使用される「仮定」が「事実と合っているもの」「自明のもの」と解釈されることがあれば、たちまちそ全理論が「真理」となるという性格を持っているという点で、自然科学との親和性は高いといえるだろう。つまり、自然科学において、ある知見から推論によってどのような結果がでるかを知りたい場合には、それらの知見を分析して数学の公理に置き換え、そのような公理のもとで展開されている数学理論を探せばよいということになるのである。