外交官に学ぶ「交渉術」

佐藤(2011)は、外交官として北方領土交渉の第一線で活躍した実体験に基づいた「交渉術」を展開している。まず、そもそも論として、広義の交渉術には3つあるという。1つ目は、交渉を行ってもこちら側が損することが明確な場合の「交渉をしないための交渉術」。2つ目は「暴力で相手を押さえつける交渉術」。そして3つ目が佐藤が詳しく記述する「取り引きによる交渉術」である。


佐藤が交渉術で強調するのは「人間にはさまざまな欲望がある。よって交渉術とは、相手の欲望にどのように付け込んで、こちら側に有利な状況をつくるか」である。相手を罠に陥れ、堕落させ、こちら側に有利な状況を作り出すことも交渉術では当然使われるという。例えば、佐藤の体験の場合、「ありとあらゆる可能性を追求しなくては北方領土を取り返すことなどできない」という前提の上で、人間の性欲、金銭欲、出世欲、名誉欲を利用した交渉の実態を紹介している。


ただし、インテリジェンスのプロが使う交渉術は、一般人が想像するものよりもはるかに高度であることを佐藤は示唆する。例えば、インテリジェンスのプロによる「ハニートラップ(色仕掛け)」は、商売女を送り込むなどという稚拙な手法ではなく、ほんものの恋愛に介入する手法をとるという。恋愛沙汰での弱みに付け込み、恩を売り、相手が誰にも相談できないような状況を作り出す。また、プロはお金で情報は買わないという。直接お金を渡すのではなく、相手が必要とするサービスに対して費用を肩代わりするなど「友人になる」「恩を売る」のに使うのが効果的だという。


また佐藤は、酒はインテリジェンス交渉で重要な意味を持つという。まず、酒は交渉相手との信頼関係を高めることができるからである。そして、酒を飲むと口が軽くなるので情報収集に便利だからである。したがって、相手を酔い潰して重要な情報を手に入れたり人間性を確かめたりするわけである。相手が酩酊して話した情報の信憑性は結構高いという。


窮地に陥った場合の交渉術も、実体験に基づいて解説している。例えば、窮地に陥った時の「死んだふり」は弱者の最大の武器だという。動物行動学によれば、屈従や服従の身振りは相手からの攻撃を抑制する効果がある。「死んだふり」や「土下座」のような徹底的な弱者の立場に立つことで、相手を畏怖させ、力関係を逆転させる契機をつかむことができるというのである。これに関連し「恥を捨てる」こともサバイバルの秘訣だという。官庁のような「減点主義」の組織では、恥知らで死んだふりをするような「恐ろしい」人物は、重要な仕事を頼まれず、それで否定的な評価をされることもないので、確実に出世するという。


佐藤は、官僚と政治家の交渉術に関連する特徴についても述べている。佐藤によれば、官僚の職業的良心は「出世すること」である。出世して権力を手にすれば、自らが信じる国益を増進する政策を現実にする可能性が広がるから、霞ヶ関官僚の内在的論理では、自らの出世と省益と国益は一体なのだという。しかし、日本の官僚は偏差値エリートであり、子供の頃から褒められるのに慣れ、叱られた経験がないので「守り」に極端に弱いという。危機的状況になると萎縮しやすく、責任追及がなされるという恐れを抱くと、身体が文字通り動かなくなるという。


一方、政治家は毎日戦っているので、修羅場になると強くなるという。政治家は、基本的に獰猛類、肉食獣であるから、スイッチが入ると、政治家の目は獰猛類のように一瞬少し大きくなって光り、ぞっとするような目つきになるという。スイッチが入っていない政治家には官僚がどんなに重要だと思う事項を話しても、聞き流される。よって、政治家にスイッチが入った瞬間を見逃さないことが肝要だと説く。また、政治家の逆鱗と琴線は隣り合わせにあり、琴線に触れようと試みたことが逆に逆鱗に触れてしまうことの恐ろしさについても触れている。