存在の本質を示す二重性あるいは相補性

東洋思想では、本質的に分けることができない全体(=宇宙もしくは世界)を、対立する2つの側面を用いて理解しようとする。その最も抽象度の高いレベルを陰と陽とするならば、それぞれについても対立する2つの側面で理解していくことで枝分かれ的に解像度が増していく。つまり「分ける」ことは人間が宇宙や世界を理解するための認識方法にすぎず、2つの対立する側面を用いて分けて考えるということは、二進法を用いて世界を理解することに他ならない。それが、八卦、六十四卦という形で解像度を高めながら物事を理解していくということである。そして、宇宙もしくは世界は常に変化し生成発展しているわけだが、不可分な全体としての宇宙や世界が変化しているといっても人間としてはそれをまるごとは認識できないので、もっとも抽象度の高いレベルでは、陰と陽のダイナミックな循環という形で理解しようとする。さらに二進法的に解像度を高めていけばもっと複雑な動きや変化も認識することができるというわけである。

 

さて、このように存在の本質を2つの対立する側面を用いて理解するという東洋思想的な考え方と通底しているのが、現代科学が明らかにしてきた様々な宇宙や世界の特徴である。ここでは、シース(2024)の論考を用いてそれを考察してみよう。シースは、複雑性の理論を援用しながら、二重性あるいは相補性という特徴を用いて生命、物理現象、精神世界などの幅広いトピックスについてそれらの存在や実在を説明している。もっとも有名なのが、量子力学における、粒子と波動の二重性である。これは、粒子と波動という相対立する2つの異なる特徴、あるいは矛盾しており同時に存在することが論理的に不可能な2つの要素の両方を併せもっていることが量子の本質だという物理学上の発見である。物理学者ボーアは、この性質を「あらゆるスケールにおける存在の基本特性」と見なしたという。物質的世界の根源的な要素の本質が粒子と波の両方の性質を兼ねそろえているということであるから、この宇宙や世界の物理的な存在の本質は、粒子といったモノ的なものと波といったコト的なものの両面を併せ持っていることだということになる。

 

シースの議論をもう少し丁寧に追っていくと、複雑系において、全体は要素の複雑な相互作用として理解することができ、生命の本質もそのあたりにある。つまり、平衡状態と非平衡状態のあいだに自己組織化を生む状態があり、自己組織化そのものは生命と大いに関係があるというわけである。そして自然界で人間などの生物を考えるならば、生物という個体は、細胞という単位間の複雑な相互作用による自己組織化プロセスが反映されていると考えられる。細胞はすぐ隣とか近くの細胞としか局所的に相互作用できなくても、それが全体として統一感を持った自律プロセスとして生体維持につながっている。しかし、生物を構成する1つ1つの細胞も生命を持ち、常に誕生と死滅を繰り返している。また、外からやってきて生体と共生する細菌などの微生物も1つ1つが生命であるが、生体維持に不可欠である。となると、生命とは何かを理解しようとする際、1人の人間は、それ自体が1つの生命体なのか、あるいは、細胞や微生物といった無数の生命体の相互作用からなる全体、すなわち常に出生死滅を繰り返す何億、何兆という数の生命の相互作用による連合体ということだろうか。二重性や相補性の考え方を用いれば、両方だといえる。

 

人間を意識をもち自律的に統合された活動をする主体と考えれば1つの生命体といえるが、ミクロなレベルで人体やその構成要素である細胞はオープンシステムであり休むことなく外界と物質のやり取りをしていると考えられば、まさに無数の生命体が集まったものもしくは出たり入ったりするプロセスとも言えなくもない。さらに、オープンシステムの考え方を使えば、人体は、それぞれが境界で分けられた細胞、さらには細胞によって構成される組織や臓器の集まりだと捉えるべきか、人体全体を様々な物質が流動していると捉えるべきかという対立的な見方が出てくる。前者は西洋医学と、後者は東洋医学と親和性が高い見方だが、これも、二重性、相補性の考え方でいけば、人体は両方の側面を持っていると理解することが可能である。人体を不連続な細胞の集まりとして捉え、個々の細胞や臓器に焦点を当てて理解するのは、モノとしての人間を見ることになるし、半透明の仕切りはあれど基本的には連続する流体として人体を捉えるならば、どちらかというとそれは流れるコトとして人間を理解することになるが、このモノとコトも、存在の本質を示す二重性、相補性の関係にある。

 

シースによれば、生物の細胞のレベルにまで解像度を高めても、その本質を理解するためには二重性や相補性がついてまわる。例えば、細胞の活動メカニズムをみると、そこには、分子の自己組織化プロセスが重要な役割を果たしていることがわかる。身体感覚の根拠をそれを構成する物質に求めるという立場をとるならば、身体の境界はその物質存在の境界ともいえるが、実のところ、体の中にある分子も、体の外にある分子も性質に違いがない。出たり入ったりしているというプロセスは存在するが、出入りする境界は何かといわれればこれも曖昧であるので、身体と外界とは連続的につながっているともいえる。つまり、身体は外界と切り離された物理的存在であるという視点と、身体は外界と連続しているという視点は二重性、相補性の関係にある。そしてさらに解像度を高め、原子のレベルにいっても、それには自己組織化する複雑性の基準をすべて満たしているとシースはいう。

 

有機物も無機的な原子から構成されているから、有機物と無機物も原子レベルで考える存在の二重性、相補性といってもよい。お互いに排他的な存在ではなく、どちらも生きている地球の全体を構成する相補的な部分なのである。生物学者ラヴロックによるガイア仮説やその最初のモデルとして設計されたデイジーワールドでは、論理的かつ科学的に地球自体が一個の生物だと考えられると提唱され、地球の有機的(生物的)様相と無機的(無生物的)様相が自己制御的で適応的な仕方で綿密に結びついている様子をシミュレーションで提示し、有機的要素と無機的要素が連動して自己制御的な生命体として動作しうることを示しているという。すべての有機的構造体も生と死の循環プロセスを経て原子レベルの無機的領域に還っていく。こう考えると、身体の細胞はつねに入れ替わり、分子レベルでも原子レベルでも常に入れ替わり、再生と置換の果てしない反復のなかで地に還っていく。人体そのものも地に還っていく。そうなると、人間は地球そのもので、原子たちが自己組織化した結果現れたほんの束の間の存在にすぎないのではないかとシースは指摘するのである。

 

素粒子の世界にまで解像度を高めても同じことである。先述の波と粒の二重性、相補性に加え、量子もつれや非局所性という量子の性質は科学的に実証され、もはやローカルとグローバルの区別がなく、両者が共存するという相補性が現れるという。量子のスケールでは、宇宙の果てにまで広がっているわけで、先程の見解でいえば、1人の人間も宇宙そのものという相補性が見えてくる。つまり、宇宙のレベルから素粒子のレベルまであらゆるレベルにおいて二重性、相補性が存在の基本であり、あるレベルにおいてモノのように見えるものも、違うレベルにおいてはなんらかの創発現象にすぎない。どの部分の中にも全体を含むフラクタル構造の中で、宇宙自体が巨大な自己組織化プロセスであり、あらゆるものへの創発特性であるといえるとシースは論じる。これは、異なるレベルも1つの全体として織り込まれているという点でヒエラルキー(階層)ではなく、ホラルキーだという。宇宙が単一の自己組織化する巨大なホラルキーならば、部分にとって真であることは全体にとっても真であり、われわれの行動や決定や思考はすべて宇宙全体の統合された欠くべからず部分でもあるというのである。

文献

ニール・シース 2024「「複雑系」が世界の見方を変える──関係、意識、存在の科学理論」 亜紀書房