生命は誕生するものではなく、死んだこともない

池田(2019)は、現代の生物学の知識を用いて、生命とは何かについての解説を行っている。それによると、子供が生まれる時などに一般的に使われる「新しい生命が誕生した」という表現は、生物学的には正しくない。何らかの物質が絡み合って生命が誕生するわけではないということだ。もし本当にそれが可能であるならば、原理的には生命は人工的に作りだすことができることになるが、それに成功したことは一度たりともない。また、個体としての1人1人の人間は死ぬが、いま生きている生命は、それが個別に誕生したのではなく、太古から死ぬことがなく脈々と受け継がれてきているものであることがわかる。火に例えてみると、火は一度消えてしまったら(死んだら)、二度と再点火しない。けれども、最初は小さな火種として出発したものが、いまでは地球全体に燃え広がってしまって、いくら部分的に消化しても(死ぬ個体が存在しても)、全体としては消すことができなくなってしまった(地球は生命であふれかえっている)というようなものである。いま燃えている火は、古代になんらかの偶然が重なって奇跡的に生じた小さな火種から今日まで脈々と受け継がれたものであって、一度も消えたことがないわけである。


上記のことをもう少し詳しく説明すると、生命の源はDNAであるかのような誤解が生じがちだが、DNAは設計図的な情報が入っている物質にすぎないので、生命そのものではない。別の言い方をすれば、生命に情報を提供するような役割を担っている物質にすぎない。そもそも、生物とは、内と外の境界を次々と変えながら自分自身が変わっていくシステムだと池田はいう。つまり、「物質の循環」を通して、自分を構成する物質を次々と変えながら、なおかつ全体としては同じという奇妙な空間なのである。私たち人間でいえば、10年前と現在とでは自分の身体を形成する物質がすべて変わってしまっている。しかし、10年前もいまも、私は私で同一である。このように、本当は変わり続けているのに同一性を保っているものを「オートポイエーシス」と呼ぶわけだが、池田は、生物とは究極には物質の配置であり、物質と物質のある特殊な配置がオートポイエイティックな系を作り出したのではないかという。一度出来上がったシステムは再帰システムにより循環し、壊されない限り続く。生物は約38憶年前にそのようにして誕生して以降、ずっとそのオートポイエイティックなシステムを空間から空間へ継承させてきたのである。


このように、遺伝に関してはDNAも重要だが、DNAが遺伝するのではなく、オートポイエイティックなシステムが遺伝されてきているのだと池田は指摘する。つまり、生きていること自体が継承されているということである。これは生命に関するもう1つの重要な事実を内包している。それは、例えば人間の場合、生命はつねに女性を通じてしか受け継がれないということである。男性は生命を受け継ぐことができず、あくまでDNAを提供することで情報を提供することしかできない。人間の細胞の中で死なない細胞の1つが生殖細胞であり、その生殖細胞が次の子供になり、大人になり、また生殖細胞ができて分裂し、そのうちの何個かが次の大人になり、、、と、生殖細胞の系列だけは細胞分裂を繰り返し、死ぬことはないと池田はいう。つまり、女性は子供を産むことで自分の生殖細胞の一部が生き延びていくことができるが、男性はDNAを提供することしかできないので、細胞レベルでは死んでしまう。つまり、男性として生まれた生命は、必ずそこが終着点となって途絶える運命にあるわけである。先ほどの火の例えでいえば、つぎからつぎへと火が燃え移っていくプロセスは、女性を通じてのみ可能であって、男性の場合は、受け継いだ火は必ずそこで消えてしまうというわけである。