3つのグリークスで理解するブラック・ショールズ方程式

冨島は、金融理論は要素還元主義の考え方が成功している分野であり、「無裁定条件」「完備性」「効率的市場仮説」といった基本的仮定によって組み立てられていると解説していることを以下の記事で紹介した。

要素還元主義で成功した金融理論 - ゼミのページへようこそ

このような金融理論のハイライトとなるのが、金融技術の代名詞ともいわれ、ノーベル経済学賞の受賞にもつながり、オプションなどの金融派生商品(デリバティブ)の価格付けに幅広く用いられるブラック・ショールズ方程式である。オプションとは、ある原資産を特定の価格で売買できる権利を指す。ノーベル賞級であるブラック・ショールズ方程式を理解するのは大変であるが、冨島は、この方程式の本質を直感的に理解するための効果的な解説を行っている。以下に説明するブラック・ショールズ方程式の理解や導出でも「無裁定条件」「完備性」「効率的市場仮説」の3つの仮定が用いられる。

 

要素還元主義が示すとおり、ブラック・ショールズ方程式も、いくつかの部品の組み合わせでできていると考えられるので、部品に分解しながら理解すると分かりやすい。まずは、オプション価値を要素に分解しながら考えてみよう。まず、オプションの価値が「本源的価値+時間価値」に分解できると冨島はいう。「本源的価値」は、オプションをいま行使したらいくらのペイオフがあるかを示す値である。「時間価値」は、オプションの満期までに価値が上がる可能性を考慮した値である。つまり、オプションは、その権利を行使して原資産を買ったり売ったりすることで得られる利益が大きければ価値が高く、さらに、オプションの行使期間が長いほど価値が高い。

 

そして、冨島によれば、一見複雑な微分方程式であるブラック・ショールズ方程式の数式も、その数式を構成している3つ部品である「グリークス」ごとに分けて考えると理解が容易になる。3つのグリークスとは、ギリシャ語で表される「デルタ」「セータ」「ガンマ」の項である。デルタは、「原資産価格が1単位変わったときに、オプション価値が何単位増えるか」を表す。セータは、「時間経過によるオプション価値の減少」を表す。「ガンマ」は、「原資産が1単位変わったときに、デルタがいくら変わるか」を表す、、いわゆる二階微分である。ブラック・ショールズ方程式は、この3つのグリークス(デルタ、セータ、ガンマ)を部品として含む微分方程式なのである。

 

ブラック・ショールズ方程式では、デルタ、セータ、ガンマの3つを含む数式の右辺がゼロである。なぜゼロになるのかを理解するうえで必要な概念が、「デルタヘッジ」と「完備性」と「無裁定条件」である。デルタヘッジ、あるいはダイナミックデルタヘッジとは、オプションを保有すると同時に原資産と無リスク証券を組み合わせて動的に売買することによってリスクをゼロにする方法を指す。完備性の仮定によると、どのような種類のオプションであっても、そのペイオフを相殺してリスクがゼロになるようなものを原資産と無リスク証券を動的に組み合わせることで作ることができる。

 

ブラック・ショールズ方程式の右辺がゼロである意味を理解するために、再度グリークスを使って数式を分解しながら理解しよう。まず、オプションは時間が経って満期に近づくとともに価値が減少するので、これを「セータ損」と呼ぶ。これは方程式内のセータそのものである。次に、原資産価格が上下することによって平均的に得られる利益を「ガンマ益」と呼ぶ。これはガンマに原資産の変動幅が加わった項である。そして残った項が、デルタヘッジを行ったときに生じる資金繰りの損益である。これはデルタと利子率が絡み合った項である。

 

これらを組み合わせ「セータ損+ガンマ益+デルタヘッジの資金繰り損益=0」とするのがブラック・ショールズ方程式の正体である。つまり、デルタヘッジを行うことで無リスクにした際に、価格の歪みを利用して無リスクで儲けることはできない、すなわち裁定機会がないので損益はゼロになるという意味なのである。別の言い方をすれば、要素還元主義かつ演繹的な発想によって、「無裁定条件と完備性が存在する世界においては、オプションの価格はこの方程式を満たさなければならない」という意味なのである。

 

このようなブラック・ショールズ方程式を微分方程式として解くことでオプションの価格が計算できるわけである。ブラック・ショールズ方程式の導出過程の詳細は冨島の書籍その他の資料に譲るが、導出過程で考慮する原資産の値動きを想定する際に3つ目の仮定である「効率的市場仮説」が用いられている。あらゆる情報が現在の価格に織り込まれているため、個別の原資産の将来を予測することはできないと考える。よって、原資産の値動きは「期待リターン分の上昇+ランダムな動き」として記述する。ランダムな動きというのは、効率的市場仮説に従い、価格を動かす多くの要因の分析を放棄していることを意味する。もっとも、導出過程では、数学分野のテイラー展開や伊藤の補題を適用することでランダム成分を方程式から消去することができるのである。

文献

冨島佑允 2026「金融数学入門」(講談社 ブルーバックス)

 

PBRと資本コストの関係についての直感的理解

コーポレートファイナンスの分野で用いられるコンセプトのうち、株式投資を行う上でも投資判断の指標として欠かせないのがPBR(Price-to-Book Ratio: 株価純資産倍率)で、この指標を理解する上で重要なのが「資本コスト」の概念である。内田(2026)は、著書の序盤でこの2つの関係をわかりやすく解説している。借入金や税率などが入ってくると若干複雑になるので、まずは、もっとも直感的に理解しやすい、負債がない無借金経営の会社を考えてみよう。無借金経営の会社のPBRは、株価と1株あたり純資産(簿価)の比であるから、分子を企業の株式時価総額とすれば、分母は、純資産簿価であり、それはすべて株主による出資額である。

 

数年前まで日本企業の多くがPBRが1倍割れであることが話題となっていた。この意味について、資本コストの考え方を理解しながら、理解を進めてみよう。純資産簿価=資本とするならば、資本のコストとは何だろうか。内田によれば、この「コスト」は、「機会コスト」の意味である。簡単にいうと、出資額をを別のところで運用していたら得られただろう収益機会を、この会社に出資することによって失っているという意味でのコストである。であるから当然、株主は、他で運用していたら得られるであろう収益(=資本コスト)以上の収益を、この会社に求めることで機会コストの穴を埋めたいはずである。さもなければ損してしまう。

 

では、その会社の資本コストはどれくらいかというと、それはリスクの度合いによる。無リスクであれば期待収益率は最小となり、リスクが高まるほど、期待収益率が高まる。これはいわゆる、ハイリスク・ハイリターンである。人間はリスクを嫌うので、リスクに見合った期待収益率の増加がなければ、リスク資産の魅力はないということである。それで、その会社に投資することのリスクは何かといえば、それはその会社の事業リスクに他ならない。つまり、リスクが高い事業を営んでいる会社の資本コストは相対的に高く、リスクが低い安定した事業を営んでいる会社の資本コストは相対的に低い。

 

資本コストの意味がわかったところで、PBRの話に戻ろう。PBRの分子である株式時価総額を求めるためには、株価がどう決まるかを理解する必要がある。PBRが1倍のケースを考えてみる。これは、株式時価総額と純資産簿価が等しいということだが、これは、事業から得られる期待収益が、資本コストで示される期待収益と同じだということを意味している。つまり、簿価と同じ金額で株式を買ったとすると、簿価を同じリスクを持つ別の資産で運用しようと、この会社に簿価を置いたままであろうと、期待収益が同じだということである。だから1倍なのである。

 

では、会社の事業から生み出される期待収益が、資本コストで想定する期待収益を下回っている場合はどうなるであろうか。この場合、簿価と同じ金額で株式を買うと、別の同じリスクを持つ資産を同じ金額で買った場合よりも期待収益が低いので、株式を買う魅力がない。であるから、簿価よりも低い株価でないと買うことはない。ではどれくらい簿価よりも低くなるかというと、まさに、その価格で買って運用した時の期待収益が資本コストと同じになるところまで株価は下がる。そうなると当然、株価は簿価を下回るので、PBRは1倍割れとなるのである。

 

ここまでで、PBRと資本コストの関係がもっとも単純化したケースで直感的に理解できた。つまり、事業リスクを考慮した上での会社の期待収益率が資本コストを下回る場合にはPBRが1倍を割り、期待収益率と資本コストが等しいと1倍であり、期待収益率が資本コストを上回れば1倍を超えることになるのである。であるから、無借金経営のケースで言えば、PBRが1倍以下ということは、その会社は事業を営むことによって株主を損させているので、株主に対する責任を果たしていないことを意味する。会社は、資本コストを上回る収益を上げることが最低限必要なわけで、それができているかどうかを判断する材料として、PBRが1倍以上あるかが参考になるのである。

 

今回はあくまでもっとも単純化した話でPBRと資本コストの関係について紐解いたが、内田によれば、企業経営の立場から、「事業収益率が資本コストを上回ること」はコーポレートファイナンスの原則である。事業収益率をどう正確に測定するのか、借入金や金利や法人税率などを考慮するとどうなるのか、事業を多角化している場合はどうなのか、配当政策や自社株買いをするとどうなるのかなど、より現実に近い要素を加味していくことで現実の世界への当てはまりをよくしていくと計算の内容自体は複雑となるので、そちらについてはコーポレートファイナンスの勉強をすることで理解していくことが可能であろう。

文献

内田交謹 2026「コーポレート・ファイナンスの思考法: 資本コストとPBRの世界観」有斐閣

要素還元主義で成功した金融理論

冨島(2026)は、大学院で物理学を専攻した経験から、金融数学を用いた理論は、少数の基本的な原理から出発するという点で物理学とよく似ていると指摘する。すなわち、要素還元主義である。要素還元主義では、現象を理解、説明するために全体を部分(要素)に分け、基本的に数少ない諸要素を理解したうえで、それらを部品のように扱って組み立てることで全体像を理解する。相対性理論では、核となる要素が「光速度不変」の公準で、そこから出発して時空の謎を解き明かしていく。

 

つまり、自然科学においては物理学が要素還元主義による現象解明方法の王道を歩んできた。しかし、自然科学に対して、人々の相互作用によって生じる現象であり、ゆえに人間の心理や行為が現象に影響を与える社会科学では、社会現象を要素にまで分解することが難しいといえそうである。しかし、冨島によれば、金融理論では、「無裁定条件」という核となる要素から出発し、「完備性」や「効率的市場仮説」といった追加的な仮定を組み込むことで金融の世界を体系的に解き明かしていくと説明するのである。

 

冨島によると、金融理論は、金融商品の理論価格を推定するための「プライシング理論」、限られた資金をどの資産にどれだけ配分かを判断するための「ポートフォリオ理論」、損益の触れを定量化しコントロールするための「リスク管理」に大別される。これらの諸理論が、「無裁定条件」「完備性」「効率的市場仮説」の3つの基本仮定を取捨選択して組み合わせることで成り立っている。基本的に人々の思考や行為が現象の振る舞いに影響を及ぼさない自然科学ではなく、社会科学においてこのようなアプローチが可能である理由も以下に説明するように興味深い。

 

ほぼあらゆる金融理論の核となる「無裁定条件」というのは、「裁定機会は存在しない」という仮定である。裁定機会とは、例えば、同じ商品が複数の市場で取引されており、市場によって価格が異なっている場合に、価格が安い市場で買って価格が高い市場で同時に売れば無リスクで利益を生み出せるという機会である。無裁定条件が金融理論の土台となっており、例えばプライシング理論では、さまざまな金融商品を、要素に分解し、正確に評価するための強力なツールとなっている。

 

では、なぜ無裁定条件を仮定した理論が現実の世界の理解に役立つのか。現実の世界では本当にこの仮定のとおり裁定機会がないのか。実は皮肉なことに、現実世界において無裁定条件の仮定を成立させているのが、裁定機会を追求しようとする無数の金融市場参加者なのである。つまり、現実の世界では、原理的に裁定機会はありうる。しかし、市場参加者が、無リスクで利益を獲得しようという欲望に基づいて裁定機会を狙った取引をすればするほど、裁定機会がなくなっていくのである。

 

ここが重要で、社会科学としての金融理論では、物理学の「光速度一定の公準」のように、人間の営みに関係なく成り立つとされる仮定を置くのではない。そうではなく、人間同士の営みの根本にある人々の欲望が無裁定条件を作り出していると言えるのである。逆にいうと、このように裁定機会を狙う市場参加者がいなければ、市場において価格の歪みが放置されることになり、無裁定条件が成り立たないのである。社会科学ならではの原理であると言える。

 

プライシング理論では、あらゆる金融商品が基本的な部品の組み合わせから成り立っており、その部品の組み合わせ方によって、無リスク資産が作れるという仮定のもとで価格推定が行われる。これを「リスク中立プライシング」という。そこで、無裁定条件と並んで用いられる仮定が、完備性という仮定である。完備性とは、市場で取引できる証券を組み合わせることで将来のあらゆるペイオフを再現できるという仮定である。これが、リスク中立測度を用いたリスク中立プライシングの前提となる。

 

リスク中立測度とは、市場参加者があたかもリスク中立的に取引するかのようにリスクプレミアムを無視する計算方法であるが、これが成り立つのは、まず無裁定条件によってリスク中立測度が1つ以上存在することが証明でき、さらに完備性によってリスク中立測度が一意に定まることが証明できるから利用できるのである。

 

金融理論の3つ目の仮定の「効率的市場仮説」は、「投資家が手に入れられるような情報は、すでに価格に織り込まれている」という仮定である。これは、端的にいうと「未来は読めない」という過程で、リスク管理の理論における大前提となっている。もしこの仮定が成り立たなければ、他の投資家が手に入らない情報を入手できる投資家が、その情報を用いて市場を上回る超過利益を獲得できてしまう。これも、物理学的な公準と異なり、現実の社会においてインサイダー取引が禁止され、情報技術の発展によって情報化が進み、あらゆる情報が瞬時に拡散できるようになればなるほど、そして、投資家がその情報を価格づけに利用しようとすればするほど、この仮定の妥当性が強化されるという性質を持っている。

文献

冨島佑允 2026「金融数学入門」(講談社 ブルーバックス)

 

偶然が織りなす世界において私たちはどう生きるべきか

クラース(2025)は、ある人物とは全く関係のないと思われる人物が偶然選んだ選択肢が、その人物の生死に関わったり、偶然生じた小さな出来事が世界を大きく揺るがすことになった歴史をはじめとする数多くの事例を紹介しながら、ほんの些細な偶然がいかにこの世界を大きく変えるうるのか、そして、自分自身は何もコントロールしていないが、あらゆることに影響を与えているのだということを示している。自然現象も同じことで、小惑星の地球衝突のタイミングや位置がほんの少しでもずれていたら人類が出現しなかっただろう。つまり、私たちの人生は偶然が支配し、この世界は成り行きの産物である。成功や失敗も、進化も歴史も、小さな偶然の積み重ねに左右されている。重要なのは、私たちのすべての行動は、たとえそれがどんなに些細なものであっても、常に世界に影響を与え続けているということである。

 

これがこの世界の真実なのだとすれば、何が言えるのだろうか。クラースが主張するのは、まず、私たちが自然科学の脅威的な発展などに支えられ、この世界を予測したりコントロールすることができると考えるのは幻想だということである。確かに人類は、ロケットの軌道を正確に予測し、コントロールし、人類を安全に月に着陸することに成功している。しかし、それは世界全体を考えるならば例外中の例外といえよう。社会現象に至っては、正確な予測やコントロールが困難なことは経済学の現実への応用などを見れば明らかである。それよりも世界の歴史の多くの出来事が偶然の出来事で形成されており、これからの世界がどうなるのかを予測することはほぼ不可能である。私たちに必要なのは、世界は偶然で成り立っており、物事を予測したりコントロールするのは困難なことを確認することであろう。

 

では、なぜ世界は偶然で成り立っているのか。原理的には全ての事は決定しており神のような計算力があれば未来は予測可能なのではないのか。それは現代の諸学問の発展によって明らかにされつつある。まず、ニュートンの時代に支配的になりつつあった決定論は否定されている。物質の位置や運動状態のように、現在の状態がわかれば原理的には将来どうなるのかが予測できるという考えは誤りである。非線形性が支配する決定論的カオスや複雑適応系の理論が示唆するのは、初期状態がどれだけ微細に違っていても、その後の展開は全く異なっていくということである。複雑適応系では様々な要素が相互に影響を与え合うので、一見してシステムとして収束に向かっているようでも臨界状態になるとほんの些細なことがその後の進行を大きく変えてしまう。そして量子力学が示唆するのは、物質世界の根本において、現在の状態が次の状態に移行する際には不確実性が存在するということである。

 

複雑系の理論と量子力学を組み合わせれば、この宇宙が誕生した瞬間から、あらゆるものが根本的にはランダム性を保ちながら、カオス的なプロセスによってお互いに影響を与え合い、この世界を形成してきたということが実感できる。この宇宙の誕生の瞬間にその後の全てのことが決定されているといった考え方は、ニュートン力学が支配していた時代にはありえた発想であるが、現在の学問的知識から言えば明らかな間違いである。物質世界でも社会でも、また、大きな出来事には大きな原因があり、些細なことは影響しないというシンプルな考え方も間違いである。ほんの些細な偶然が大きな結果を生み出し、世界を大きく変えてしまうのである。そして世界の根本は不確実でランダム性(偶然)に支配されているので、原理的にも物事の正確な予測は不可能である。

 

さらに偶然が支配する世界の理解を促進する強力な思考ツールが進化論である。進化論は、偶然性がもたらす変異と適者生存の自然選択が生物の世界を生成発展させてきたことを示唆し、この思想は、生物学以外の自然科学や社会科学にも適用可能な考え方である。つまり、進化論は、万物がいかに生成発展しているのかを説明するためのヒントを与えてくれる。進化論に複雑系の理論と量子力学に加わることによって、単に、優れた個体が生き残るという側面ではなく、偶然、そこに居合わせた者、偶然生じたことが生存に影響する、運の良い物事が生き残ることで物事が進化するという側面が強調されるのである。

 

では、偶然によって物事が生成発展する世界、私たちのあらゆる些細な行動さえもがこの世界に影響を与え、私たちの人生も他者の偶然などによって影響を受けている世界、そして私たちが予測したりコントロールすることが不可能な世界において、私たちはどのように生きていけば良いのだろうか。そもそも、私たちは、自分の人生を舵取りするための自由意志を持ち合わせているのだろうか。それとも私たちは偶然に成り行きを任せるしかない無力な存在なのだろうか。これに答えるために、まず自由意志について考えてみよう。

 

自由意志の問題は、哲学的にもまだ解決されていない厄介なものであろうが、クラースの議論によれば、世の中は決定論に支配されており私たちに自由意志がないというのは誤りであることがわかる。しかし一方で、生物学や神経科学の学問的発展により、私たちに物質的基礎がない独立した自由意志があるという考え方もまた誤りであることが明らかになっている。私たちの物質的、生物学的な現象と自由意志を含む意識や精神とには相関があり、相互の因果関係は不明であるが、物質世界は決定論ではないので、私たちの自由意志は限定的には存在するといってよいのかもしれない。しかし、自由意志があることは、私たちが自由に自分自身の行動や行く末を決定できるということではない。

 

私たちは、物事を単純に理解したいというバイアスを生まれながらに持っている。これ自体、人間が自然に適応していくために進化させてきた特徴とも言えるが、それゆえに、偶然が支配する出来事や歴史にもストーリーを当てはめてあたかも意味がある話のように捉えてしまうし、世界を動かすシンプルな因果関係を想定しようとする。そしてそのバイアスに基づいて自分自身の人生も自分で決定できると思いがちである。しかし、あらゆるものが究極的、原理的には予測可能でコントロールできるという幻想が逆に私たちを苦しめてしまう。現に、自然科学や資本主義の発展はよりよき社会を築くために機能してきたかと思いきや、逆にそれは自然破壊や社会的不平等を生み出しさらなる問題を生み出している。

 

では、どうすれば良いのか。クラースは、世界はカオス的であり、人生は偶然によってつくられるからこそ、豊かで価値があるのだと主張する。私たちは、量子レベルでの確率的な振る舞いや、ノイズにしかすぎないと思われる些細な出来事が、カオス理論や複雑系科学で言うところのバタフライ効果を通じてマクロな世界に増幅される可能性を理解し、今、この瞬間の小さな揺らぎや選択でさえもが、遠い未来に予測不能な巨大な変化を起こす可能性を意識することが大切であろう。これは、何事もないような日常的な生活と人生に大きなインパクトと意味を与えてくれるエキサイティングな事実である。この小さな揺らぎや選択は、私たちが持つ自由意志によってなされる。自由意志による選択や行為によって人生をコントロールすることはできなくても、自分の人生や他者の人生に大きな影響を与える可能性を秘めている。

 

世界は偶然によって形成されつつも、実際に未来がどうなっていくのかは進化論的なプロセスが鍵を握っている。偶然のプロセスによって駆動する進化は不可逆であり、元に戻ることができないからこそ、私たちの人生は一回限りであると言うのも真実である。私たちが今、ここにいるのは、宇宙の始まりから綿々と続いてきた偶然的なプロセスの産物なのであり、誰かが何かをコントロールして生じた結果ではなく、これからもそうである。私たちが今、完璧なまでに偶然の産物としてここにいることの幸運とありがたみを日々の生活で噛み締め、私たちが自由意志によって織りなす日々の生活がこの世界全体の形成に影響を与えている、私たち一人ひとりにそのような大きな力があるのだということを実感し、偶然と進化のプロセスがもたらすこの人生を楽しむことが大切なのであろう。

文献

ブライアン・クラース 2025「「偶然」はどのようにあなたをつくるのか: すべてが影響し合う複雑なこの世界を生きることの意味」東洋経済新報社

 

賢明なもう1人の自分が現れる身体的技法

田坂(2020)は、深く考える力を磨き、直観を磨いていくためには、「自己対話の技法」が効果的だと説く。自己対話の相手とは、自分の中にある「天才」である。ここでいう天才とは、人間は、誰の中にも、想像を超えた素晴らしい才能や能力、そして可能性が広がっているという意味だという。このような天才としての自分を、田坂は「賢明なもう1人の自分」と命名しており、この自分との対話こそが、深い思考や直観を導いてくれるということである。ただ、「賢明なもう1人の自分」が心の奥から現れてくるためには、特定の身体条件や環境条件が必要だと田坂はいう。そして、その条件を実現するために以下の7つの身体的技法を解説している。

 

田坂が説く第1の身体的技法は、「呼吸を整え、深い呼吸を行う」ことである。これは、呼吸の浅さと思考の浅さがほとんど同義語として用いられることでもわかるという。つまり、深く考えたいのであれば、深い呼吸をすることが大切で、呼吸を整え、深い呼吸を行うことで、賢明なもう1人の自分が現れてくるようになり、その自分が深い思索を促してくれるようになるという。

 

第2の身体的技法は、音楽の不思議な力を活用することである。その曲を聴くと、軽いトランス状態になり、賢明なもう1人の自分が現れてくるような音楽を活用するということだと田坂はいう。我々の意識を通常の意識とは異なった状態にする作用を持つある種の音楽を、新たな発想やアイデアを生み出すときに意図的に活用する。田坂の経験からは、単調なリズムを繰り返す音楽が我々の心を軽いトランス状態に導いてくれると感じるそうだ。空海が「万物の天才」と呼ばれるほど多彩な能力を発揮した秘密は、実は響き(リズム)を持つ真言(マントラ)にあるともいう。

 

第3の身体的技法は、群衆の中の孤独に身を置くことである。例えば近くのカフェや喫茶店で仕事をするとき、周りに多くの人がいるため「密かな安心感」があると同時に、それらの人々は自分に無関心で、干渉せず、放置しておいてくれるため「心地よい孤独感」が得られるのだと田坂は説明する。であるから、人声や雑音に溢れるカフェや喫茶店などが創造的な仕事に適した場所になりうるというのである。

 

第4の身体的技法は、自然の浄化力の中に身を浸すことである。どれほど多忙な日々の中でも、時間を見つけ、工夫をし、自然に触れ、自然に身を浸すようにすると、自然には偉大な浄化力があるため、それによって心身ともに癒される。心が癒される状態とは、心の中のエゴが鎮まっている状態であると田坂はいう。そして、自然の静けさの中で、心の奥から「賢明なもう1人の自分」が現れてくるというのである。大自然を訪れることができなても、近くの神社の森や公園の森でもよいという。

 

第5の身体的技法は、思索のためだけに散策することである。カントやヘーゲルの逸話などに代表されるように、昔から、物事を深く考えるためには「散策」をすることが1つの優れた方法とされてきたという。思索をするために散策する場所は、美しく静かな自然であることは、上記の自然の浄化力の中に身を浸す技法との相乗効果が得られるので理想的であるが、田坂は、散策は必ずしも自然の中である必要はないという。街中や雑踏の中の散策でも、既述の「群衆の中の孤独に身を置く」との相乗効果が得られるし、音楽を聴きながら散策すれば、「音楽の不思議な力を活用する」との相乗効果が得られるという。

 

第6の身体的技法は、瞑想が自然に起こるのを待つことである。瞑想という技法は一般的に思われているほど簡単なものではないと田坂は指摘する。意識的に「深い瞑想の状態に入ろう」「深い禅定の境地に至ろう」と思うと、その意識そのものが「邪念」になってしまい、かえって深い瞑想の状態や深い禅定の境地から遠ざかってしまうからだという。田坂によれば、瞑想の状態や禅定の境地は、意識的に到達しようとするものではなく、瞑想や坐禅の技法を実践するとき、自然に起こるものである。それゆえ、我々がなすべきことは、瞑想や坐禅の技法を実践することを通じて、それが自然に起こる、あるいは「降りてくる」のを待つことなのだという。つまり、賢明なもう1人の自分を引き出そうとするのではなく、それが自然に現れるのを待つということなのである。

 

第7の身体的技法は、すべてを託するという心境で祈ることである。もし我々が「大いなる何か」の存在を信じ、その存在と結びつき、そのことによって必要な叡智が与えられることを祈るならば、「祈る」ことや「拝む」ことは最も基本の技法だと田坂はいう。祈ることや拝むことによって、我々の中から、大いなる何かと繋がる「賢明なもう1人の自分」が現れ、必要なときに必要な叡智を教えてくれるのだという。重要なのは、要求の祈りをしないということである。要求の祈りをするときは、心の中で否定的な感情が渦巻いていたり、エゴが強く働いていたりする。その時は、賢明なもう1人の自分は現れてこないという。賢明なもう1人の自分は、我々の感情やエゴ、願望や欲求には耳を貸さないという性質を持っているということなのである。

文献

田坂広志 2020「直観を磨く 深く考える七つの技法」(講談社現代新書)

直観を磨くための7つの思考法

田坂(2020)は、直観と論理が融合したとき、最高の思考力が生まれると説き、論理思考を超えた思考法として直観思考を挙げる。そして、初級課程としての論理思考、上級課程としての直観思考の間に、身につけるべき中級課程の思考法を含め、深く考えるための7つの思考法を紹介している。それらは「循環論理」「対立止揚」「課題回帰」「水平知性」「体験知性」「多重人格」「自己対話」の思考法である。

 

第1の「循環論理の思考法」は、問題の循環構造を俯瞰しながら考えることであると田坂はいう。世の中の物事は多くが循環構造をしており、解決困難な問題の多くが、いわゆる「悪循環」に陥っているからだという。この思考法では、まず、さまざまな問題が絡み合った問題群を、因果関係のフローチャートなどを用いて俯瞰することで問題の循環構造を発見する。この時、大局観や洞察力が求められる。次に、循環構造の全体に働きかける。「病む時は、全体が病む」からである。そして、循環構造の「ツボ」を見出し、そこに働きかけることである。これは、循環構造の悪循環を断ち切り、反転攻勢に出るためのツボを意味すると田坂はいう。

 

第2の「対立止揚の思考法」は、論理的思考で用いられる「二項対立」で考えるのではなく、問題の矛盾を解決しようとしないで考えることだと田坂はいう。二項対立的な論理思考は、しばしば、目の前の複雑で混沌とした現実を単純化して捉えてしまい、その現実にうまく対処することができなくなるからである。そのため、正・反・合のプロセスによる止揚(アウフヘーベン)を志向する「弁証法」のように、ある1つの考え方(正)に対して、これと対立する考え方(反)を取り上げ、これら一見対立するものを、より高い次元で統合していく思考プロセスを行う。すなわち、対立するものを超えて、より高い視点に立って考えることだと田坂はいう。

 

第3の「課題回帰の思考法」は、田坂によれば、「解決の方法」を考えるのではなく、「解決すべき課題」を考える方法である。解決の方法ばかりにとらわれると、視野狭窄に陥り、解決すべき課題を見失ってしまうことを防ぐための思考法でもある。創造的な人は馬鹿げた発想ができるが、それは、解決の方法に目を奪われることなく、解決すべき課題に目を向けることによって可能になることが多い。本質的な問題に目を向けることによって視野狭窄を脱し、まったく斬新な解決策を発想できたりするのだと田坂は示唆する。また田坂は、問題解決の鍵を「最先端の技術」や「革新的な制度」に求める傾向があるが、しばしば、その問題解決のための本当の鍵は「人間心理の機微」にあることも併せて指摘する。

 

第4の「水平知性の思考法」は、1つの専門分野を深く掘り下げる知的能力である「垂直知性」とは異なり、さまざまな専門分野を横断的、水平的に結びつけて物事を考える知的能力に対応していると田坂はいう。これからの時代は、世の中の物事がますます複雑に絡み合い、1つの専門分野だけで問題を解決することが困難になっていくため、さまざまな専門分野を結びつけて解決策を見出していく水平知性こそが重要になってくるのだという。そして、水平知性を身につけるために田坂が実践していることとして、心の中で、「深く大きな問い」を問い続け、本を読むとき、答えを希求しながら「触発的コンセプト」だけを掴みながら読み、著書を執筆するとき、本質を理解するために「わかりやすい言葉」にこだわっているという。

 

第5の「体験知性の思考法」とは、書物や雑誌、新聞やウェブなどによって得られた文献知によって考える「文献知性」(言葉で表せる知)ではなく、自身の経験や体験を通じて得られた「体験知」(言葉で表せない智恵)によって考えることだと田坂はいう。文献知のみで考えると、体験知も含めて考えた場合と比べ、「浅い思考」に陥ってしまうと田坂は指摘する。言葉で表せる以上のことを知っていることを「暗黙知」と言い、日本語ではこれを「智恵」と呼んできたと田坂は説く。貴重な経験から「体験知」を学びとるためには、経験の追体験をし、体験知を振り返り、体験知の言語化をしてみるといった「反省の技法」を身につけることだという。また、経験の浅さは、疑似体験によって補えるという。

 

第6の「多重人格の思考法」とは、自分の中に複数の人格を育て、人格を切り替えながら考える方法である。これは「自己視点」で考えるのではなく、「他者視点」で考え、さらに「多重人格視点」で考えることでもある。我々の心の中の「エゴ」が強く、エゴの動きに身を任せていると、物事を見る視点や考える視点が、必然的に自分中心の視点になってしまう。よって、エゴを否定も肯定もせず、ただ静かに見つめる「静かな観察者」を自分の心の中に生み出すことで、自分中心の視点に陥りそうになったとき、静かな観察者が警句を心の中で発してくれるという。また、自分自身が他人と同等の経験がなければ、他人の視点や立場や気持ちになって考えるための想像力が働かないため、「苦労」の経験が与えられた時は、それを「他人の視点」を学ぶための好機と思い、苦しさや辛さ、悲しさや寂しさといった心の動きを見つめることが重要だという。

 

第7の「自己対話の思考法」とは、心の奥の「もう1人の賢明な自分」と対話しながら考えることだと田坂はいう。賢明なもう1人の自分は、論理思考を超えた鋭い直感力を有しており、データベースを超えた、膨大な記憶力を持っている。そして、自己限定をしないことで、必要な叡智が自然に降りてくると信じて考える。これは深く考えるための上級課程の思考法だと田坂はいう。この思考を行うための技法は7つあると田坂はいう。

 

1つ目は、まず、自分の考えを文章に書き出してみることである。そして一度時間を置き、心を整え、静かな心で、その文章を読み直す。すると、心の奥深くから、賢明なもう1人の自分が現れ、その文章を違う視点から見ることで考えを深めてくれるという。2つ目は、心の奥底の賢明なもう1人の自分に問いを投げかけることだと田坂はいう。もう1人の自分は、心の奥深くで「自問自答」に静かに耳を傾けているからである。そしてしばしばその問いに刺激を受け、動き出し、ふとした形でその答えを出してくれるという。

 

3つ目は、徹底的に考えた後、一度、その「問い」を忘れることである。賢明なもう1人の自分は、我々の表面意識で「答えを知りたい」という気持ちが強すぎると働かない。なぜならば、それは自分のエゴが強く働いている状態だからである。天才的なアイデアは、必死に考え、考え尽くして、疲れ果て、一度その問題から離れているときに、突如、閃くことが多いのだと田坂はいう。4つ目は、意図的に、賢明なもう1人の自分を追い詰めることである。分野を問わず熟練のプロフェッショナルは、自分の中から賢明なもう1人の自分を引き出し、その「直観」を引き出すために、自らの退路を断ち、自らを追い詰める技法を身につけているという。意図的に自分を追い詰めたとき、賢明なもう1人の自分が動き出すという。

 

5つ目は、ときに、賢明なもう1人の自分と禅問答をすることである。それは、論理的に「対極の言葉」を結びつけて考えることである。対極の言葉や、逆説の言葉を、賢明なもう1人の自分に投げかけることは、深い叡智を得る優れた技法に他ならないと田坂はいう。6つ目は、1つの「格言」を、1冊の「本」のように読むことである。その時、1つ1つの格言の意味を「理屈」で解釈するのではなく、読んだ瞬間に心に響く格言を「直観」によって見つけていくことである。そして、なぜその格言が心に響くのかを、自身の人生の「体験」に照らし合わせて考えてみる。本来、格言は、それを語った人間の意図や思想を超えて広がり、受け継がれていくものであるから、それを読む人それぞれの、自由な解釈、多様な解釈に委ねられるべきものなのだと田坂は主張する。そして、その格言を加筆・修正してみると、賢明なもう1人の自分との対話が可能になるという。

 

最後の7つ目は、思索的なエッセイを「視点の転換」に注意して読むことである。思考や思索を深めることは、物事を見つめる「視点」を深めていくことに他ならない。そのために、まず「始まりの視点」に注目し、次に「視点の転換」に注目し、そして「異なった視点の結合」に注目するのが良いと田坂はいう。そして、思索的なエッセイを推理小説のように読むという技法も有効だと田坂は指摘する。

文献

田坂広志 2020「直観を磨く 深く考える七つの技法」(講談社現代新書)

ポスト資本主義の社会構想2:資本主義・社会主義・エコロジーの交差

市場経済を利用した不断の拡大・成長を前提とする資本主義社会が、需要の飽和や富の偏在、地球環境・資源の制約から成長の限界に直面し、今後定常化社会に向かうことが予想される。そこで求められる新たな価値観や社会構想とは何か。前回は、資本主義と近代科学が無限の拡大・成長を志向する原動力の両輪であり、最近の科学の変容が、近代科学の進展によって「自然」や「コミュニティ」から離陸していった人間をもう一度自然、コミュニティへ着陸させる方向性と重なっているという広井の視点を説明した。今回は、「時間政策」「資本主義の社会化」「コミュニティ経済」を柱として、「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」を定常化されたポスト資本主義の社会構想とする広井の考えを紹介する。

 

資本主義のシステムには2つのパラドックスが内在していることを広井は示す。1つ目は、生産性のパラドックスで、それが「過剰による貧困」をもたらす。資本主義は元来、労働生産性の向上によって生まれる過剰な労働力が別の新たな生産に従事することによって次々と新たな需要が生み出され社会全体が良くなっていくという無限のサイクルが想定されていた。しかし実際には、生産性が上がれば上がるほど失業が増えるというパラドックスが存在すると広井は論じる。生産性が最高度に上がった社会では少人数の労働で多くの生産が上げられることになり、人々の需要を満たすことができるので、その結果おのずと多数の人が失業するということである。そして、失業は貧困につながるため、過剰→失業→貧困というように、生産性の向上が「過剰による貧困」の状況を生み出してしまうのである。

 

これに対処するためには、「過剰の抑制」というのがポスト資本主義社会に向けた指針となりうることを広井は示唆する。その政策の1つが「時間政策」である。これは、人々の賃金労働時間を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり時間を再配分して、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうという政策である。それをさらに発展させた、時間環境政策という公共政策の方向性も広井は提唱する。これは、エネルギーを大量に使って時間を短縮すること、すなわち自然の搾取を通じてスピードを上げ、生産性を高めることによって現代人が身体的にもスピードについていけない状態になっているのを、時間環境をゆるやかにすることで、エネルギーや資源消費を減らすことを意味する。

 

上記はつまり、労働生産性から環境効率性(資源生産性)へという方向性を示している。かつての時代は、人手が足りず、自然資源が十分ある状態だったので、労働生産性が重要だった。しかし今は全く逆で、人手が余り、自然資源が足りない状態になっているため、人を積極的に使い、自然資源の消費や環境負荷を抑えるという環境効率性(資源生産性)を高める方向が重要だということである。資源・環境制約の顕在化と需要の成熟・飽和という状況を背景に、過剰の抑制をし、以下に示すように資本主義の社会化というものが行われる。すなわち、資本主義・社会主義・エコロジーのクロスオーバーというのが1つの重要な視点となるだ。

 

資本主義が内包する2つ目のパラドックスは、資本主義の根幹を支えるための社会主義化というパラドックスである。近代の資本主義は、「独立した均質な個人によって成立する社会において、個人が市場経済の中で自由な経済活動を行う」ことを前提としていた。この前提が成り立つためには、個人が人生のはじめにおいて「共通のスタートライン」に立てることが必要不可欠である。しかし、現実の社会において個人は裸の個人として均等に生まれてくるわけではなく、家族や家系など継承性の中でこそ存在している。自由な経済活動に伴う競争によってある世代でストックに格差が生じるならば、政府による介入によってそれらの再配分ないし社会化を行わなければ、前の世代に生じた格差が継承されてしまい、機会の平等が損なわれ、格差の相続、貧困の連鎖が生じてしまう。

 

つまり、個人の「機会の平等」「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、政府による市場経済への介入といった、ある意味で社会主義的といえる対応が必要になるというパラドックスが存在すると広井はいうのである。重要なのは、資本主義の歴史的進化の中で、政府による社会主義的な市場経済への介入は、システムの末端部分における救貧法のような事後的な介入から始まり、その後、事前的な社会保険や政府による雇用そのものの創出など、資本主義の根幹の部分にさかのぼった介入へと拡張し、資本主義を順次「社会化」し、システムの中に社会主義的な要素を導入してきたことである。個人の「自由」の保障は、「自由放任」によっては実現せず、むしろそれは積極的に社会によって「作って」いくものなのだというわけである。これが「資本主義の社会化」である。

 

さらに広井は、ローカルなコミュニティに基盤を置く「コミュニティ経済」という構想を挙げる。これは、ローカリゼーションあるいは地域への人々の着陸を志向するものである。工業化時代あるいは高度成長期の社会資本整備は、主にナショナルな空間範囲に関わるもので、国レベルの中央集権的なプランニングにもっともなじみやすい性格のものであった。そして、工業化社会の社会資本が成熟・飽和状態となった後の金融化・情報化の波は、グローバルな性格を持つものである。そして、この波がさらに成熟・飽和した後にくるのは、福祉、環境、文化、まちづくり、農業といったローカルな性格の領域だろうと広井は予想する。経済の空間的ユニットがローカルなものへとシフトしていく時代に重要になってくるのは、地域においてヒト、モノ、カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ的なつながりも生まれるような経済のありようだと広井は説く。

 

そして広井は、「時間政策」「資本主義の社会化」「コミュニティ経済」を含んだ全体として、自然エネルギーを軸に、資本主義が前提とする限りない拡大・成長を前提としないような、エコロジーと結びついた福祉国家、あるいは脱成長の福祉国家のあり方としての「緑の福祉国家、持続可能な福祉社会」というポスト資本主義の社会構想を示す。これは、福祉国家自体が資本主義と社会主義の一種の結合形態であるので、先述のとおり、資本主義・社会主義・エコロジーのクロスオーバーという理解ができる。資本主義的な拡大・成長ではなく、(地域内)循環に軸足を置いたコミュニティ経済が発展していけば、それは自ずと過剰の抑制につながり、かつそこでさまざまな雇用やコミュニティ的つながりが生まれて来れば、格差の是正にも一定度合い寄与し、再配分の前提条件を緩和させることにつながる。

 

広井によれば、緑の福祉国家、持続可能な福祉社会の基本的な特徴は、ローカルな経済循環から出発し、地域間の再分配(都市ー農村間の不均衡の是正を含む)の仕組みを重層的に組み込みながらナショナル、グローバルへと積み上げていくような社会である。同時にそこでは、時間政策が導入され、さまざまな社会保障や再分配システムが採用され、これらを通じて過剰の抑制や個人の生活保障ないし分配の公正が図られている。ただ、21世紀は、なお限りない「拡大・成長」を志向するベクトルと、成熟そして定常化を志向するベクトルとの深いレベルでの対立ないしせめぎ合いの時代となるだろうと広井はいう。しかし、世界の持続可能性や人々の幸福という価値を基準にとった場合、定常化あるいは持続可能な福祉社会への道こそが、私たちが実現していくべき方向ではないかと広井は主張するのである。

文献

広井良典 2015「ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来」(岩波新書)