現象学とは何か

私たちは、主観でしか世界を認識することはできない。自分の外側に飛び出して、自分を含む世界を「客観的に」眺めることなど不可能である。しかし、現在支配的な諸学問や諸科学は、後者の「あり得ない」客観性を前提としているものが多く、中でも、数学や論理学は、それが人間そのものの存在の有無に関わらず普遍的に成立することが前提とされており、世界を理解するうえで最も基礎的で「本質的な」学問のようにも思える。しかし、そのような学問が本質的であることがどうして分かるのだろうか。これに関して、フッサールの提唱した現象学は、私たちが認識できる「現象」こそが、数学や論理学を含むすべての諸学問/諸科学を基礎づけるという考え方を前提として提唱された哲学だと言われる。これはどういうことであろうか。

 

谷(2002)によれば、フッサールが提唱した現象学は「現象」についての「学問」であるが、ここでいう現象とは、「諸現出」と「現出者」を含んでいる。端的に言えば、フッサール現象学は、現出者と諸現出との関係を扱う学問である。現出者の同一性は、感覚・体験される諸現出の多様性が「突破」されることで知覚・経験されている。例えば、現出者を「正方形」とするならば、私たちには、見る角度などによって、それが平行四辺形として感覚・体験されたりする。これが「諸現出」であり、諸現出は見る角度が変われば異なる形として感覚・体験されるから、多様である。しかし、その多様な諸現出は、それらを媒介して(突破して)「現出者」が知覚されるという本質的な相関関係を示している。

 

上記のような経験を「直接経験」という。フッサールは、諸現出の体験を媒介にして(突破して)現出者が知覚されるという構造を見出したわけだが、この媒介・突破の働きが「志向性」である。フッサールは、諸学問の「下」には、直接経験=志向的体験があり、諸学問はそこから基礎づけられなければならないと考えた。そのためには、直接経験=志向的体験を、その外部から眺められるという思い込みを中断(エポケー)して、これの「内部」に還元せねばならない。現象学は、「下」と「内」からの哲学であり、直接経験=志向的体験こそが、すべての学問/科学の基礎だとフッサールは考えたのである。以下において、諸学問の性質をもとに、これをもう少し敷衍して説明しよう。

 

そもそも、近代の自然科学が数学に依拠して発展したように、諸学問/諸科学は数学を含む意味での「純粋論理学」に基礎づけられていると考えられる。フッサールによれば、数学や論理学は、いつでもどこでも妥当するという理念的・本質的で普遍性・必然性を持つ「アプリオリ」である。一方、心理学や自然科学は、ある時やある所でのみ妥当する実在的・事実的で、個別的・偶然的でもある事実学という意味で「アポステリオリ」である。アプリオリな数学や論理学は、アポステリオリな他の諸学問を基礎づけることができるが、その逆は成り立たない。だから、諸学問/諸科学は純粋論理学に基礎づけられているといえる。

 

そしてフッサールは、この純粋論理学が、さらに直接経験=志向的体験から基礎づけられると論じたわけである。すなわち、本質学における「真理」がどうして真理といえるのかといった本質の理解は、直接経験=志向的体験から得られるということなのだ。簡単に言えば、アプリオリ=本質は、経験(直接的経験=志向的体験)から抽出されるフッサールはいう。経験は、アポステリオリな成分だけで成り立っているのではなく、アプリオリな成分(あるいは少なくともその先行形態)も含んでおり、「直観」が、この直接経験=志向的体験からアプリオリな成分を抽出してきて、それを論理的なものへと仕上げるのである。では、アプリオリなものは直接経験=志向的体験のなかにどのように含まれており、それをどうやって抽出するのだろうか。つまり、アプリオリなものが、直接経験/志向性にどのように含まれるかが問題となる。

 

フッサールは、数学や論理学が人間の心理構造や心理作用の規則性といったものに基礎を持つと考える「心理主義」を否定した。なぜなら、心理主義をとると、人間以外の生物や別の心理構造を持つ人間にとっては別の数学や論理学が妥当することになり、それではアプリオリな学問とは言えないからである。かつてガリレイは、自然の中に幾何学図形があるということを述べていた。しかし。よく見れば、自然の中に完全な幾何学図形などない(と人は反論するだろう)。そこで逆に、カントは幾何学の起源を「私たち自身」に移した。つまり、私たち自身にあらかじめ備わった感性(直観)の形式として「空間」を設定しておいて、そこから幾何学を導き出そうとした。しかし、この考え方は一種の心理主義である。これをベネケという著者が批判し、フッサールも同調したと谷は解説する。幾何学は自然のなかに(あらかじめできあがって)存在しているわけではないし、私たち自身の中に(あらかじめできあがって)存在しているわけでもない。フッサール的に見れば、幾何学は、自然と私たち自身のいわば「あいだ」で成立するというのである。

 

フッサールの分析によれば、ユークリッド幾何学ニュートン物理学は、直接経験=志向体験から成立する。あるいは「生活世界」的経験から成立する。生活世界には、まだ自然科学的な意味で「客観的な」幾何学図形はないし、幾何学に対応する「客観的な」空間(や時間)もない。しかしそこには、先客観的な空間(や時間)がある。カントはこうした先客観的な空間(や時間)を知らなかったため、ユークリッド幾何学ニュートン物理学の客観的な空間概念や時間概念を前提としてしまい、それと対応するような「感性の形式」が主観的にアプリオリに備わっているとみなした。これは、根源的なもの(先客観的な空間や時間)を見落として、派生的なもの(ユークリッド幾何学などで用いる空間・時間概念)を前提とする「本末転倒」の考え方だと谷は説明する。

 

事象内容を持つ質料的本質は、3領域「物質的自然(物理的なものが主役)」「生命的自然(心理物理的な生物が主役)」「精神世界(物理的な物ではなく道具や文化を対象とする人間が主役)」に分けられる。この関係性については、物質的自然は、生命的自然なしにもありうるが、生命的自然は、物質的自然なしにありえない。また、生命的自然は精神世界なしにありうるが、精神世界は生命的自然なしにはありえない。このように、生命的自然は物質的自然に基づけられており、精神世界は生命的自然に基づけられているという、物質的自然→生命的自然→精神世界という基づけ関係が見出される。

 

しかし他方で、態度という視点で見ると、私たちが最初に経験するのは「物質的な物」ではなく、鉛筆や歯ブラシといった道具であり、その後ではじめてそららを物質的な物とみる見方(態度)を身に着ける。つまり、私たちは、物質的自然に対応する「自然科学的態度」を取る以前に、精神世界に対応する「人格主義的態度」において生きている。人格主義的態度における道具や人格こそが、根源的に経験されており、自然科学的態度における物や心理物理的な生物は、派生的に経験されているにすぎない。よって、自然科学よりも人格主義的態度の精神世界すなわち「生活世界」のほうが、自然科学よりも先行し、前者は後者から派生する。生活世界こそが自然科学的領域の始原(期限/根源)である。フッサールによれば、精神世界/生活世界こそが根源的であり、物質的自然や生命的自然は派生的なのである。

文献

谷徹2002「これが現象学だ」(講談社現代新書)

 

マルクスの思想が到達した「脱成長コミュニズム」とは何か

斎藤(2020)は、最晩年のマルクスが遺した手紙や読書メモなどをつなぎ合わせると、これまで指摘されてこなかった思想の大転換を晩年のマルクスが行っていたことが分かると論じる。どういうことかというと、マルクスは晩年になって、若かりし時代に盟友エンゲルスと執筆した共産党宣言資本論第一巻で展開した史的唯物論に基づく「進歩史観」、とりわけ「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」とは決別し、「脱成長コミュニズム」という理論的大転換を遂げていたのだと主張する。脱成長コミュニズムは、平等で持続可能な脱成長型経済を実現するための考え方である。そして、マルクスが晩年に構想したこの「脱成長コミュニズム」こそが、拡張を続ける経済活動が地球環境を破壊し尽くそうとしている現代に必要な思想なのだという。

 

たしかに、若きマルクスは、「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」に支配されていたことを斎藤は指摘する。例えば「共産党宣言」では、資本主義の発展は生産力の上昇と過剰生産恐慌によって革命を準備してくれると考えていた。だから、社会主義を打ち立てるために、資本主義のもとで生産力をどんどん発展させる必要があると考えていた節があるという。つまり、資本主義がもたらす近代化と生産性の上昇が将来の社会で人々を豊かになる条件を提供することで最終的に人類の解放をもたらすというように、人類社会にとっては過渡期としての資本主義が必要不可欠であるという考え方で、これが単線的な進歩史観であり「生産力至上主義」である。そして、この思想の背後にあるのが、ヨーロッパが時代の先端を走っており、ほかのあらゆる地域も西欧と同じように資本主義での近代化を進めなければならないとする「ヨーロッパ中心主義」である。

 

上記のような唯物史観進歩史観が維持される限り、マルクスの思想は時代遅れであり、資本主義が自然環境を破壊し人類を滅亡に導く可能性すらある現代の社会問題の解決には適用不能ということになってしまう。しかし斎藤によれば、マルクスは後期になってこの考え方を修正し、「労働」が「人間と自然の物質代謝」を制御・媒介することを含む資本と環境の関係を鋭く分析していたのだという。この関係性のもとでは、資本が自らの価値を増やすことを最優先するため、人間も自然も徹底的に利用することで、人類社会に対する適度な豊かさの提供をはるかに超えるかたちで人間と自然の物質代謝を大きく攪乱し、長時間の過酷な労働による身体的・精神的疾患や、自然資源の枯渇や生態系の破壊を招くという帰結につながるわけである。だから、資本主義は物質代謝に「修復不可能な亀裂」を生み出すことになるとマルクス資本論で警告したと斎藤は指摘する。つまり、資本主義は、人間と自然の物質代謝を持続可能な形で管理することを困難にし、社会がさらに発展するには足かせになるというわけである。

 

マルクスは「ヨーロッパ中心主義」からも決別したと斎藤はいう。生産力の発展こそが人類の歴史を前に進める原動力であるとする生産力至上主義は、ヨーロッパ中心主義を正当化していたのだが、資本主義のもつ生産力が物質代謝を攪乱し、修復不可能な亀裂を世界規模で深めるという後期の思想は、生産力至上主義を捨て、よってヨーロッパ中心主義も捨てることになったわけである。とりわけ晩年のマルクスは、非西欧、前資本主義の共同体から社会変革の可能性を学ぼうとしていたという。例えば、晩年のマルクスは、複線的な歴史観を受容するようになり、単線的な進歩史観に依拠した「革命の単一的なモデル」を拒否したという。社会主義へと至る経路は、西欧の発展モデルに限定されないばかりか、マルクスの考えるコミュニズム自体が大きく変貌したことを斎藤は指摘する。つまり、生産力至上主義とヨーロッパ中心主義を捨てた晩年のマルクスは、西欧資本主義を真に乗り越えるプロジェクトとして「脱成長コミュニズム」を構想する地点にまで到達していたのだと斎藤は指摘するのである。

 

つまり、晩年のマルクスは、持続可能性に関心を向け、自然科学研究とりわけエコロジー研究と共同体研究に没頭していたと斎藤は指摘する。「資本論」以降のマルクスが着目したのは、資本主義と自然環境の関係性だったのであると。その結果、持続可能性と社会的平等が綿密に連関していることにマルクスは気づいたのだという。マルクスは、自分の理論的転換があまりにも大きすぎたために、死期までに「資本論」を完成させることができなかった。決して資本論の辛い執筆から趣味の読書に逃避していたのではなく、進歩史観を捨て、新しい歴史観を打ち立てようとする血の滲むような努力の過程であったのだと斎藤はいうのである。では、持続可能性と社会的平等を重視する「脱成長コミュニズム」とはどのようなものなのだろうか。

 

マルクスによれば、資本主義は自然科学を無償の自然力を絞り出すために用いる。その結果、生産力の上昇は自然の掠奪を強め、持続可能性のある人間的発展の基盤を切り崩す。そう批判するマルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を<コモン>として持続可能に管理することであった。そして、自然と人間の物質代謝に走った亀裂を修復する唯一の方法は、自然の循環に合わせた生産が可能になるよう、労働を抜本的に変革していくことだということを示唆した。具体的には、「使用価値経済への転換」「労働時間の短縮」「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」「エッセンシャル・ワークの重視」である。これらが「脱成長コミュニズム」の柱となる。グローバル化された資本主義が人類の生存そのものを脅かす新人世の危機に立ち向かうため、未完の『資本論』を、「脱成長コミュニズム」の理論化として引き継ぐような大胆な新解釈にこそ今取り組むべきだと斎藤は主張するのである。

文献

斎藤幸平 2020「人新世の「資本論」」(集英社新書)

 

現代思想家になる方法

千葉(2022)は、1960年代から1990年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」を、とりわけジャック・デリダジル・ドゥルーズミシェル・フーコーの思想を中心に「現代思想」として紹介し、現代思想を、「秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する」「20世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したこと」だと論じる。つまり、秩序をつくる思想はそれはそれで必要だが、しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたいという。そして、現代思想の特徴を解説することによって現代思想家になるための方法を紹介している。

 

現代思想における思考法の1つが「脱構築」であるが、千葉は、脱構築とは、物事を「二項対立」、つまり「2つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保することだという。二項対立は、ある価値観を背景にすることで、一方がプラスで他方がマイナスになるように仕組まれた方法なのだが、そもそも二項対立のどちらがプラスなのかは絶対的には決定できないと千葉はいう。このことを踏まえた千葉の解説によると、まず、「脱構築」では、二項対立を設定した後、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。そうすることで、対立する項が相互に依存し、どちらが主導権を取るのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともあるという。

 

また千葉は、現代思想とは差異の哲学だと論じたうえで、ズレや変化を時間的に捉える「生成変化」についても以下の通り解説する。まず、ドゥルーズは、世界は差異でできているという世界観を展開しており、あらゆる事物は、異なる状態になる「途中」であるという。ここでは、同一性/差異という二項対立が想定され、同一性よりも差異が先だというポジションをとっていることが重要である。ドゥルーズによれば、事物は、多方向の差異「化」のプロセスそのものである。プロセスは常に途中であって、決定的な始まりも終わりもない。事物は時間的であり、変化しており、出来事である。全ては生成変化の途中であるというのである。ここでは、差異が中心となり、同一性は二次的な位置に置かれている。それにより、すべての同一性は仮固定であり、世界は時間的であって、すべては運動のただなかにあるということになる。

 

さらに千葉は、フーコーによる権力の二項対立図式を解説する。権力と聞くと、強い権力者が弱い人民を抑圧し支配するという一方的・非対称な関係を想像するが、フーコーは、支配を受けている人々はただ受け身なのではなく、むしろ「支配されることを積極的に望んでしまう」ような構造を明らかにしたのだという。つまり、支配するもの/されるものという二項対立を考えるときに、権力は一方的に上から押さえつけられるだけではなく、下からそれを支える構造もあって、本当の悪玉を見つけること自体が間違いだという。また、正常/異常という二項対立においては、正常が正しく異常が間違っているというよりは、下からも来る権力構造によって、マジョリティから見て厄介なもの、邪魔なものを「異常」として排除する構造が見えにくくなっている結果だというのである。

 

千葉は、上記のような現代思想の特徴に基づいて、現代思想を作るための4つの原則について述べる。それは、「他者性の原則」「超越論性の原則」「極端化の原則」「反常識の原則」である。まず、①他者性の原則として、基本的に、現代思想において新しい仕事が登場するときは、まず、その時点で前提となっている前の時代の思想、先行する大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されている、取りこぼされている、ということを発見すると千葉はいう。これまでの前提から排除されている何かXがあるというわけである。

 

つぎに、②超越論性の原則では、広い意味で、超越論的(根本的な前提のレベル)と言えるような議論のレベルを想定する。現代思想では、先行する理論に対してさらに根本的に掘り下げた超越論的なものを提示する、というかたちで新しい議論を立てるという。その掘り下げは、第一の「他者性の原則」によってなされるわけである。つまり、先行する理論では、ある他者性Xが排除されている。ゆえに、他者性Xを排除しないようなより根本的な超越論的レベル=前提を提示するというように議論を展開するのである。

 

そして、③極端化の原則にといて、現代思想ではしばしば、新たな主張をとにかく極端なまでに押し進めるのだと千葉はいう。例えば、排除されていた他者性Xが極端化した状態として新たな超越論レベルを設定する。さらに、④反常識の原則として、ある種の他者性を極端化することで、常識的な世界観とはぶつかるような、いささか受け入れにくい帰結が出てくるという。しかし、それこそが実は常識の世界の背後にある、というか常識の世界はその反常識によって支えられていると論じていく。つまり、反常識的なものが超越論的な前提としてあるわけである。これらのような原則を頭に入れたうえで現代思想を学んだり、自ら現代思想を作っていくことの有効性を千葉は論じるのである。

文献

千葉雅也 2022「現代思想入門」(講談社現代新書)

 

 

世界が純粋機械化経済に移行するとどうなるのか

井上(2019)は、有史時代となってから世界の経済は、農耕中心の経済の生産構造から、機械化経済の生産構造へと変化し、将来は、純粋機械化経済の生産構造へとシフトすることが予想されるという。このような経済の生産構造の変化は私達にどのような影響をもたらし、今後もたらしていくだろうか。まずは、井上が提唱するそれぞれの生産構造についてそれらの世界における歴史および経済成長の軌跡に触れながら簡単に紹介しておこう。

 

まず、農耕中心の経済の生産構造は、石器時代の紀元前9000年ごろから始まった農耕革命に端を発し、産業革命前までの間にわたって支配的であった生産構造だと井上は説明する。農耕という形態で行われる生産構造の主要なインプットは、土地と人々の労働であり、これによって農産物というアウトプットが生まれ、消費される。農耕中心の経済の生産構造のもとでは、土地が広ければ広いほど、そして働く人々が多いほど農作物としての生産量が増える。生産量が増えれば人々の生活や食糧事情は豊かになるはずであるが、「マルサスの罠」が示すとおり、食料が増大した分だけ多くの子供を作ることで人口が増えていったため、一人あたりの豊かさすなわち所得はさほど増加しなかったと井上は指摘する。

 

その後、一人あたりの収入が大きく増加の途をたどるようになる原因となったのが、蒸気機関の発明と利用が牽引した第一次産業革命をきっかけとした機械化経済の生産構造への転換だと井上はいう。工業中心の経済である機械化経済の生産構図では、生産活動に必要なインプットは、機械と人々の労働であり、主なアウトプットは工業製品である。そして、インプットの一部でもある機械は、工業製品として作り出すことできるアウトプットでもあるため、ポジティブな循環関係が働き、工業製品の生産量が飛躍的に伸びることとなった。実際、産業革命期のイギリスでは、人口がかつてない勢いで増大したが、それを振り切るようなスピードで生産量が増大し、1人あたりの所得が増大したと井上は指摘する。その後、内燃機関や電気モーターが牽引する第二次産業革命、コンピューターとインターネットが牽引する第三次産業革命がおこったが、機械化経済の生産構造には大きな変化をもたらさなかったと井上はいう。

 

そして、現在はAIなどがもたらす革命である第四次産業革命のさなかにあり、これが、新たな生産構造である純粋機械化経済をもたらす可能性を井上は示唆するのである。純粋機械化経済の生産構造では、インプットはAI・ロボットを含む機械のみとなって、人々の労働が不要となる。そして、機械化経済の時と同じく、インプットであるAI・ロボットは、生産によってもたらされるアウトプットの一部でもあるので、ここにポジティブな循環関係が生まれる。ただし、純粋機械化経済の生産構造において人々の労働がまったく必要ないというわけではない。井上は、AIやロボットに代替されにくい労働として、クリエイティビティ、マネジメント、ホスピタリティに関する仕事を挙げており、それらの仕事によって、商品企画や生産活動全体のマネジメント、人間的なホスピタリティを提供する。逆に言えば、それら以外のAIやロボットに代替されていく。

 

井上によれば、機械化経済と純粋機械化経済の大きな違いは、ボトルネックとなる人々の労働が不要になることによって、機械による機械の生産が無限に繰り返され、生産規模がどこまでも拡大するプロセスが可能になっていることである。すなわち、機械化経済の生産構造のもとでは、インプットとして機械とともに労働が必要であり、労働は労働力人口と労働時間という制約があるから、機械だけを増やしていっても生産量は制約条件を超えて増えることはない。しかし、純粋機械化経済では、機械を増やせば増やすほど生産量が増えるという関係となっており、労働という制約条件がない。これは、IT産業やコンテンツ産業と同じ構造をしており、限界費用がゼロに近いので再現なく生産量を増やすことが可能である。それによって経済成長が爆発的に増加することを井上は示唆するのである。

 

とはいえ、いくら商品やサービスの供給が爆発的に拡大しても、同じように消費需要が増えなければ経済は成長しない。すなわち、純粋機械化経済の生産構造のもとでは、指数関数的な経済成長が起こりうるが、それはあくまで潜在供給にもとづく潜在成長率であり、消費需要が低迷していたら実現しないのである。そこで井上は、純粋機械化経済における政府の重要な役割として、マネーサプライを増やすことと、所得を再分配することを挙げる。例えば、需要の減退に伴うデフレから脱却するために、政府は「ヘリコプター・マネー」という形でお金をばらまくことをマクロ経済政策の主軸に据えるべきだという。また、ベーシック・インカムというかたちで政府が大胆な所得再配分政策を取ることにより、純粋機械化経済において仕事を失い所得を減らして消費を減退させた人々のお金の量が増えることを示唆する。今のところこれらの施策は中枢たる国家しか果たすことができないのだと井上はいうのである。

文献

井上智洋 2019「純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落」日本経済新聞出版社

 

「世界統合」vs「勢力均衡」で理解する世界史と未来の世界

長沼(2021)は、E.H.カーの「歴史とは、現在と過去との対話である」という言葉を引きながら、現代の私たちが未来をどう見るかで、どのように過去からのストーリーを決めるのだという。そのような視点から、長沼は、「未来はコンピューター化された経済力やメディアなどの目に見えないパワーに動かされる、それは、見えない皇帝と呼ぶべき非人格的な力が世界を画一的に統合する専制帝国化によるものだろう」という見方から、過去の世界史を、「世界統合」と「勢力均衡」という構造で捉えることの重要性を説く。この「世界統合」vs「勢力均衡」というテーマは、「世界を根本的にどのようなシステムで運営するか」の選択の問題として存在してきたと長沼はいう。

 

長沼によれば、古代においてローマ世界は、ローマが地中海を制覇してローマ帝国という単一の帝国に統合した世界であり、ギリシャ世界は、多数の都市国家が対等な立場で並立する世界であった。ナポレオン戦争が勃発した時代では、ナポレオンがヨーロッパ全体をフランスの三色旗の旗に統合するという「世界統合型」のビジョンで動いていたのに対し、英国はむしろ大陸内部に単一の覇権国家が生まれることを阻止し、複数の国家がバランスをとりながら並立する「勢力均衡型」の世界を志向していた。ナポレオン戦争はまさに「世界統合型」と「勢力均衡型」の2つの理念が激突する戦争だったが、英国が勝つことで、ヨーロッパ社会は以前からの勢力均衡型の世界が守られてそのまま続くことになったのだと長沼は解説する。

 

一方、中国史を見てみると、中国の場合は、魏や楚などの有力諸国が並立する勢力均衡型の世界に近いものだったのが、秦の始皇帝によって中国統一が成し遂げられて以降、単一の帝国に統合される世界が続いている。その結果、勢力均衡型の西欧に似た一種の溌剌さが希薄化していき、大きな権力の下で管理社会の中の沈滞した精神のようなものに国全体が覆われていったようにみえると長沼はいう。つまり、世界史を眺めると、西欧社会は基本的に勢力均衡型として成り立ってきたのに対し、中国は基本的に単一の帝国からなる世界統合型として成り立っていたというわけである。地政学的に見ても、大陸内部の地形が基本的に平原である中国は単一の帝国になりやすく、海が切り込んでいたり大山脈が大陸を分断するような欧州では勢力均衡が維持されることができたと考えられると長沼はいう。

 

世界統合型と勢力均衡型の特徴を見てみると、世界統合型の体制では、ひとたび帝国の支配を受け入れれば、自由と独立を手放した代償として平和と安定を享受することができる。一方、勢力均衡型の体制は、たしかに自由と独立は持ち続けることができるが、その自由は時に戦争という手段で守られるものであるため、日常的に戦争に明け暮れる世界であると長沼はいう。そして重要なのは、いったん単一帝国型になってしまった世界では、壊れてしまった勢力均衡時の地域的なつながりやデリケートな伝統を、社会全体でバランスをとるようなかたちでうまく再建することが非常に難しいことである。つまり、世界統合型の巨大帝国への移行は一種の不可逆過程だと長沼は主張するのである。

 

そして、世界史を踏まえつつ現在のわたしたちの世界を眺めると、中国史のなかで起こっていた不可逆的変化に似たものが、まさにこの世界で起こりつつあるように思えると長沼はいう。現在進行中のグローバリゼーションの理念は、明らかに一種の「世界統合」を志向するものであるが、それは無形化した力が国境を超えて液体のように浸透していくかたちで進む、全く新しいタイプの世界統合だという。つまり、現在のグローバリゼーションは、経済やメディアといった抽象的、無形化的な意味においては中国のような地形の平坦化・平原化が進行しており、始皇帝的な単一世界による一種の専制体制への道を生みかねないと長沼は警鐘を鳴らす。ただ、これまでと違うのは、世界を統合しようとする「皇帝の意志」に相当するものは非人格的な存在だということである。

 

具体的には、現在では国境をまたいで巨大化するこのマーケットとメディアの複合体の中に、社会の全ての力が集まってきていると長沼は指摘する。実際、経済活動のパターンが各国で同一化することで、同じ商品やサービスを世界中のどこでも売れるようになり、企業の無国籍化・多国籍化も容易になってきている。さらに世界全体で生活習慣や制度などが次第に画一化してくると、法律も同じものでよいという話になり、国境線自体が次第に意味を失っていくだろう。こう考えると、現代ではたとえ始皇帝のような人物が存在しなくても、社会にこのようなみえない力が働いて、世界を画一的な単一の帝国へと推進する仕掛けになっている。

 

そして社会内部では、一人ひとりが直接その巨大権力と平等につながることで、地域の伝統的なつながりは不要なものとして消えていく。こういう社会は一見、非常に自由にみえはするのだが、実際には人々は心の底で自分がそのみえない巨大権力の操り人形でしかないことに気づき、虚無と無力感の中に沈んでいく傾向が強いと長沼はいう。

 

さらに長沼は、アメリカの民主政治を考察したフランスの政治学トクヴィルの言葉を引く。トクヴィルは「あまりにも自由で平等な社会では真の意味での社会の多様性は消滅するだろう」「現代世界では、全ての民族や全ての人々は、たとえ互いに模倣しあわずとも似通ったものになっていき、世界中どこにいっても同一の行動様式、思考様式が見られるようになっている」と指摘する。つまり、民主社会において人々が短期的願望を追求する結果、表面的には多様性のある社会となっても、基本的な価値観や制度などのもっと根本的なメカニズム部分(長期的願望)では逆に画一化していくという説を長沼は紹介する。

 

今後、このようなグローバリゼーションによる世界統合の動きに対抗することは可能なのか。近年進行中のグローバリゼーションに逆行するような政治経済の動きはそれを示しているのか。私たちは現在、ナポレオン戦争のときのように、グローバリゼーションを巡って繰り広げられる一種の無形化した大きな戦いのさなかにいるのだといえよう。

文献

長沼伸一郎 2021「世界史の構造的理解 現代の「見えない皇帝」と日本の武器」PHP研究所

 

文系理系を問わず量子力学を理解すべき理由

村上(2021)は、正解があるかどうか分からない課題に直面した時に正解にたどり着く方法や、未来を正しく見通す力を身に着けるには、日常感覚の世界を飛び越えたような発想やアイデアに導く比類なき思考が大切だといい、これを「クオンタム思考」と呼んでいる。これは、量子力学から得られるニュアンスであり、この世界では実は、日常感覚的には起こり得ない「まさか」というようなことが当たり前のように起こっていることから導いた考え方である。そして村上は、文系理系を問わず、あらゆる人々が量子力学を学ぶことを勧めるのである。

 

私たちが量子力学を理解すべき理由は何か。村上によれば、量子力学が描き出す世界が、これまでの日常感覚とは根本的に異なるものであり、かつこれからの世界を変えていく技術の中でも最先端に位置しているからなのである。実際、「かつての非日常」はいま、ものすごいスピードで「日常化」しているという。そして、量子力学が扱う量子は、いまだ「日常感覚を超えた存在」だが、量子コンピュータの開発競争に見られるように、「日常化」はもう目前だという。このようなことから、私たちに大切なのは、日常感覚的には起こり得ないことが起こり得るんだという感覚を受けいられるかどうかだというのである。

 

では、量子力学が扱う「日常感覚を超えた存在」としての量子とはいったい何なのか。古典力学で扱うのは「粒子」である。これを微視的に見ると、量子になるわけだが、ここには理論的に不連続性があり、日常感覚で理解できる粒子と、微視的世界での量子は異なる。一言でいえば、量子は、粒子と波が重ね合ったもの。例えば、日常世界では、0と1は異なるが、量子力学では、0と1が重なった状態が存在する。量子が粒子でもあって波でもあるというのは、0でも1でもあると言っているのと同じである。このことからもわかるとおり、量子の振る舞いは、日常感覚的に理解しうるものではない。

 

村上は、このような量子力学を理解し、自分の知識の体系すなわち「フレーム・オブ・レファレンス」を形成させることの重要性を説く。例えば、リベラルアーツなどを志向し、知識を入れ、知識を体系立て、意識的に作られた質の良い(量子力学を含む)フレーム・オブ・レファレンスを土台として、その上に思考を築いていくことを勧めるのである。リベラルアーツは、「答えのないものを問う力」「新たな問いを立てる力」であり、量子力学を土台とした「フレーム・オブ・リファレンス」を用いて世の中の全体像を自分なりに捉えていくことで、日常感覚を超えた「まさか」を受け入れられるようになる。

 

村上によれば、「なんじゃそりゃ」と日常感覚を超え出るという感覚を味わうのが、量子力学の世界である。粒子でもあり波でもあるという量子の振る舞いを数式で表すのが量子力学の世界なのである。量子はその振る舞い自体が、日常感覚的に理解し得るものではない。「古典思考」「クラシック思考」が築いてきた科学技術の最先端には、日常感覚を超越した量子の世界が広がっている。この事実を受けいられるかどうかが重要である。「非日常感覚主義」としての「クオンタム思考」は、「イエスであってノーでもある」状態が認められている世界である。ただし、日常感覚を超えているとはいえ、量子力学はすでにさまざまなところで取り入れられている。つまり、私たちは「まさか」の現象に基づく技術に支えられた世界に生きていると村上は言う。

 

例えば、村上は、量子コンピュータが、私たちの生活とビジネスを大きく塗り替えていくという。デジタル量子コンピュータでは、量子の「重ね合わせ状態」を「量子ゲート」と呼ばれる量子回路で操作することによって、1回の計算であたかも複数の計算を並行して実行したかの如く量子併立計算が実現される。量子ゲートという量子回路の操作によって、私たちが想像する以上の膨大な計算が同時並行できる。これからの社会に大きな影響をもたらすと主張する。また、脳科学や自己意識の解明に、量子力学は欠かせないものではないかという議論も展開されているという。自己意識というものは、古典的な物理学ではわからないのではないかという一方で、古典の延長にある、量子の世界こそに「観測者」の正体が隠されていることが匂わされているのである。

 

このように、量子力学を理解することにより、私たちは、日常感覚の外に飛び出て、時代の最先端で戦い抜けるようになると村上はいう。つまり、これまで自分や社会を縛っていた常識から解放されることで、解決困難だと思われていた課題に、第三の道を提案できる。それどころか無数の道を見つけ出すことすら可能にしてしまう。また、まるで未来を覗いてきたかのような想像力構築の過程を探り、時代の最先端に立てる人材になる。すなわち、量子力学をベースとする「クオンタム思考」によって、まるで「未来を見通す神通力を持っている」と周囲から見られるような、時代の先取りをすることができるようになると村上は説くのである。

文献

村上憲郎 2021「クオンタム思考 テクノロジーとビジネスの未来に先回りする新しい思考法」日経BP

人生が変わる現代思想と精神分析

千葉(2022)は、現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになるという。単純化できない現実の難しさを、以前より高い解像度で捉えられるようになるというのである。その1つの例が、秩序と逸脱という二項対立の脱構築という考え方である。千葉によれば、現代は、世の中を「きちんとしていく」方向に改革が進んでいる。すなわち、ルール化、秩序化を重視し、ルールを守らず、秩序から外れる「だらしないもの」すなわち逸脱を切り捨てたり取り締まったり無視したりする。これは単純化なのであるが、単純化は個別具的なものから目を逸らす原因となる。現代思想は、物事を「秩序と逸脱」のように二項対立として捉え、どちらが良い、どちらが悪いという議論を一旦留保する。そうすることで、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるものに着目するという。排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定するわけである。

 

上記の話を自分の人生になぞらえていうならば、現代では、自分で自分の行動をきっちりとコントロールでき、主体的・能動的であるべきで、受け身ではよくないといった生き方が推奨されつつある。しかし、他者と生きている現実では、他者に主導権があり、他者に振り回され、受動的にならざるを得ないこともある。であるから、「能動性と受動性」の二項対立についても、どちらがプラスでどちらがマイナスかということは単純に決定できない。むしろ、能動性と受動性が違いを押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがあると千葉はいう。これは、自分の秩序に従わない他者を受け入れるということでもあり、そこに人生の魅力があるというのである。現代思想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたいという思いに介入するのである。

 

自分でコントロールしきれないものが大事だという現代思想の基本的な発想につながったものの1つに、フロイトが創始した精神分析がある。千葉によれば、精神分析の実践とは、自分の中にあるコントロールから逃れるような欲望のあり方を発見することである。自由連想法を用いて、記憶の中にあるありとあらゆることを芋づる式に引きずり出し、いろんな過去の出来事が「偶然的に」ある構造を形作っている、すなわち過去の諸々の偶然性からなる「無意識」を、自分がコントロールできない「他者」として認識させようとする。一方、人間の意識としては、全くわからずに自分の人生が方向づけられているとは思いたくないため、意識の表側で何らかの意味づけを行い、物語化することで生きている。ただ、そのような物語的理由づけによって症状が固定化されていると精神分析では考えるのである。つまり、秩序とは偶然を馴致し必然化しようとする働きであるために、秩序を重んじる意識は、訳もわからず要素がただ野放図に四方八方につながりうる世界が下に潜在しているという構造を抑圧してしまうことで症状が出ると考えるのである。

 

千葉は、現代思想が、精神分析の胸を借りるような形で自分の思想を形成しているという面があると指摘した上で、とりわけ影響力のあるラカン精神分析について説明する。ラカン精神分析の根底にあるのは、「人間は過剰な動物だ」という定義である。千葉によれば、過剰さとは、「人間はエネルギーを余している」ということであるが、それは、秩序からの逸脱性を表している。人間は、脳神経の発達のために認識の多様性を持っているため、それが過剰さを生み出している。人間は成長の過程で、人間を取り巻く第一の自然である「本能」ではなく、第二の自然である「制度」によって、そもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーを何とか制御し、整流していく。つまり、人間は、認知エネルギー(欲動)が余剰に溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であるので、そこに制約をかけて自分を安定させることに快を見出し、規律訓練を求める。しかし、一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいというような、規律・秩序からの逸脱という衝動もある。

 

上記のように、人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に、あるいは制度によって、自分を有限化することで安定して快を得ているという、エネルギーの解放と有限化の二重のプロセスがあり、そのジレンマがまさに人間的ドラマであることを理解するのが大切だと千葉はいうのである。二項対立を認識した上で、どちらが良い、悪いという判断は留保するのである。余剰を持った欲動は、人間の本能的傾向とは別に、欲動の可塑性というものを持っており、それは一種の逸脱として再形成される。私たちが正常と思っているものも、正常という逸脱でありうる。このような前提のもとでラカンは、人間がいかに人間になっていくか、すなわち成長していくかを、人間がいかに限定化され、有限化されるかという視点で分析する。

 

千葉によれば、ラカンは、大きく3つの領域で精神を考えている。1つ目は「想像界」で、イメージの領域である。2つ目は「象徴界」で、言語(記号)の領域である。この2つが合わさることで、ものがイメージとして知覚され、言語によって区別されることで認識を成立させるが、第3としての「現実界」は、イメージでも言語でも捉えることができない、認識から逃れる領域である。別の言い方をすれば、人間が生まれたばかりの時は現実界しかないわけで、そこから成長するに従ってまずイメージの世界が形成され、言語の習得によって物事を分けることができるようになる。徐々に想像界に対して象徴界が優位になり、混乱したつながりが言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。これは世界が客観化されることでもあるが、想像的エネルギーの爆発は抑制されてしまう。つまり、いろんなものを区別せずつなげていく想像力は弱まっていく。そして、認識が成立していく過程で失われるものが、イメージにも言語にもできない「本当のもの」、成長する前の原初の時には経験できていた現実界だというのである。

文献

千葉雅也 2022「現代思想入門」(講談社現代新書)