偶然が織りなす世界において私たちはどう生きるべきか

クラース(2025)は、ある人物とは全く関係のないと思われる人物が偶然選んだ選択肢が、その人物の生死に関わったり、偶然生じた小さな出来事が世界を大きく揺るがすことになった歴史をはじめとする数多くの事例を紹介しながら、ほんの些細な偶然がいかにこの世界を大きく変えるうるのか、そして、自分自身は何もコントロールしていないが、あらゆることに影響を与えているのだということを示している。自然現象も同じことで、小惑星の地球衝突のタイミングや位置がほんの少しでもずれていたら人類が出現しなかっただろう。つまり、私たちの人生は偶然が支配し、この世界は成り行きの産物である。成功や失敗も、進化も歴史も、小さな偶然の積み重ねに左右されている。重要なのは、私たちのすべての行動は、たとえそれがどんなに些細なものであっても、常に世界に影響を与え続けているということである。

 

これがこの世界の真実なのだとすれば、何が言えるのだろうか。クラースが主張するのは、まず、私たちが自然科学の脅威的な発展などに支えられ、この世界を予測したりコントロールすることができると考えるのは幻想だということである。確かに人類は、ロケットの軌道を正確に予測し、コントロールし、人類を安全に月に着陸することに成功している。しかし、それは世界全体を考えるならば例外中の例外といえよう。社会現象に至っては、正確な予測やコントロールが困難なことは経済学の現実への応用などを見れば明らかである。それよりも世界の歴史の多くの出来事が偶然の出来事で形成されており、これからの世界がどうなるのかを予測することはほぼ不可能である。私たちに必要なのは、世界は偶然で成り立っており、物事を予測したりコントロールするのは困難なことを確認することであろう。

 

では、なぜ世界は偶然で成り立っているのか。原理的には全ての事は決定しており神のような計算力があれば未来は予測可能なのではないのか。それは現代の諸学問の発展によって明らかにされつつある。まず、ニュートンの時代に支配的になりつつあった決定論は否定されている。物質の位置や運動状態のように、現在の状態がわかれば原理的には将来どうなるのかが予測できるという考えは誤りである。非線形性が支配する決定論的カオスや複雑適応系の理論が示唆するのは、初期状態がどれだけ微細に違っていても、その後の展開は全く異なっていくということである。複雑適応系では様々な要素が相互に影響を与え合うので、一見してシステムとして収束に向かっているようでも臨界状態になるとほんの些細なことがその後の進行を大きく変えてしまう。そして量子力学が示唆するのは、物質世界の根本において、現在の状態が次の状態に移行する際には不確実性が存在するということである。

 

複雑系の理論と量子力学を組み合わせれば、この宇宙が誕生した瞬間から、あらゆるものが根本的にはランダム性を保ちながら、カオス的なプロセスによってお互いに影響を与え合い、この世界を形成してきたということが実感できる。この宇宙の誕生の瞬間にその後の全てのことが決定されているといった考え方は、ニュートン力学が支配していた時代にはありえた発想であるが、現在の学問的知識から言えば明らかな間違いである。物質世界でも社会でも、また、大きな出来事には大きな原因があり、些細なことは影響しないというシンプルな考え方も間違いである。ほんの些細な偶然が大きな結果を生み出し、世界を大きく変えてしまうのである。そして世界の根本は不確実でランダム性(偶然)に支配されているので、原理的にも物事の正確な予測は不可能である。

 

さらに偶然が支配する世界の理解を促進する強力な思考ツールが進化論である。進化論は、偶然性がもたらす変異と適者生存の自然選択が生物の世界を生成発展させてきたことを示唆し、この思想は、生物学以外の自然科学や社会科学にも適用可能な考え方である。つまり、進化論は、万物がいかに生成発展しているのかを説明するためのヒントを与えてくれる。進化論に複雑系の理論と量子力学に加わることによって、単に、優れた個体が生き残るという側面ではなく、偶然、そこに居合わせた者、偶然生じたことが生存に影響する、運の良い物事が生き残ることで物事が進化するという側面が強調されるのである。

 

では、偶然によって物事が生成発展する世界、私たちのあらゆる些細な行動さえもがこの世界に影響を与え、私たちの人生も他者の偶然などによって影響を受けている世界、そして私たちが予測したりコントロールすることが不可能な世界において、私たちはどのように生きていけば良いのだろうか。そもそも、私たちは、自分の人生を舵取りするための自由意志を持ち合わせているのだろうか。それとも私たちは偶然に成り行きを任せるしかない無力な存在なのだろうか。これに答えるために、まず自由意志について考えてみよう。

 

自由意志の問題は、哲学的にもまだ解決されていない厄介なものであろうが、クラースの議論によれば、世の中は決定論に支配されており私たちに自由意志がないというのは誤りであることがわかる。しかし一方で、生物学や神経科学の学問的発展により、私たちに物質的基礎がない独立した自由意志があるという考え方もまた誤りであることが明らかになっている。私たちの物質的、生物学的な現象と自由意志を含む意識や精神とには相関があり、相互の因果関係は不明であるが、物質世界は決定論ではないので、私たちの自由意志は限定的には存在するといってよいのかもしれない。しかし、自由意志があることは、私たちが自由に自分自身の行動や行く末を決定できるということではない。

 

私たちは、物事を単純に理解したいというバイアスを生まれながらに持っている。これ自体、人間が自然に適応していくために進化させてきた特徴とも言えるが、それゆえに、偶然が支配する出来事や歴史にもストーリーを当てはめてあたかも意味がある話のように捉えてしまうし、世界を動かすシンプルな因果関係を想定しようとする。そしてそのバイアスに基づいて自分自身の人生も自分で決定できると思いがちである。しかし、あらゆるものが究極的、原理的には予測可能でコントロールできるという幻想が逆に私たちを苦しめてしまう。現に、自然科学や資本主義の発展はよりよき社会を築くために機能してきたかと思いきや、逆にそれは自然破壊や社会的不平等を生み出しさらなる問題を生み出している。

 

では、どうすれば良いのか。クラースは、世界はカオス的であり、人生は偶然によってつくられるからこそ、豊かで価値があるのだと主張する。私たちは、量子レベルでの確率的な振る舞いや、ノイズにしかすぎないと思われる些細な出来事が、カオス理論や複雑系科学で言うところのバタフライ効果を通じてマクロな世界に増幅される可能性を理解し、今、この瞬間の小さな揺らぎや選択でさえもが、遠い未来に予測不能な巨大な変化を起こす可能性を意識することが大切であろう。これは、何事もないような日常的な生活と人生に大きなインパクトと意味を与えてくれるエキサイティングな事実である。この小さな揺らぎや選択は、私たちが持つ自由意志によってなされる。自由意志による選択や行為によって人生をコントロールすることはできなくても、自分の人生や他者の人生に大きな影響を与える可能性を秘めている。

 

世界は偶然によって形成されつつも、実際に未来がどうなっていくのかは進化論的なプロセスが鍵を握っている。偶然のプロセスによって駆動する進化は不可逆であり、元に戻ることができないからこそ、私たちの人生は一回限りであると言うのも真実である。私たちが今、ここにいるのは、宇宙の始まりから綿々と続いてきた偶然的なプロセスの産物なのであり、誰かが何かをコントロールして生じた結果ではなく、これからもそうである。私たちが今、完璧なまでに偶然の産物としてここにいることの幸運とありがたみを日々の生活で噛み締め、私たちが自由意志によって織りなす日々の生活がこの世界全体の形成に影響を与えている、私たち一人ひとりにそのような大きな力があるのだということを実感し、偶然と進化のプロセスがもたらすこの人生を楽しむことが大切なのであろう。

文献

ブライアン・クラース 2025「「偶然」はどのようにあなたをつくるのか: すべてが影響し合う複雑なこの世界を生きることの意味」東洋経済新報社

 

賢明なもう1人の自分が現れる身体的技法

田坂(2020)は、深く考える力を磨き、直観を磨いていくためには、「自己対話の技法」が効果的だと説く。自己対話の相手とは、自分の中にある「天才」である。ここでいう天才とは、人間は、誰の中にも、想像を超えた素晴らしい才能や能力、そして可能性が広がっているという意味だという。このような天才としての自分を、田坂は「賢明なもう1人の自分」と命名しており、この自分との対話こそが、深い思考や直観を導いてくれるということである。ただ、「賢明なもう1人の自分」が心の奥から現れてくるためには、特定の身体条件や環境条件が必要だと田坂はいう。そして、その条件を実現するために以下の7つの身体的技法を解説している。

 

田坂が説く第1の身体的技法は、「呼吸を整え、深い呼吸を行う」ことである。これは、呼吸の浅さと思考の浅さがほとんど同義語として用いられることでもわかるという。つまり、深く考えたいのであれば、深い呼吸をすることが大切で、呼吸を整え、深い呼吸を行うことで、賢明なもう1人の自分が現れてくるようになり、その自分が深い思索を促してくれるようになるという。

 

第2の身体的技法は、音楽の不思議な力を活用することである。その曲を聴くと、軽いトランス状態になり、賢明なもう1人の自分が現れてくるような音楽を活用するということだと田坂はいう。我々の意識を通常の意識とは異なった状態にする作用を持つある種の音楽を、新たな発想やアイデアを生み出すときに意図的に活用する。田坂の経験からは、単調なリズムを繰り返す音楽が我々の心を軽いトランス状態に導いてくれると感じるそうだ。空海が「万物の天才」と呼ばれるほど多彩な能力を発揮した秘密は、実は響き(リズム)を持つ真言(マントラ)にあるともいう。

 

第3の身体的技法は、群衆の中の孤独に身を置くことである。例えば近くのカフェや喫茶店で仕事をするとき、周りに多くの人がいるため「密かな安心感」があると同時に、それらの人々は自分に無関心で、干渉せず、放置しておいてくれるため「心地よい孤独感」が得られるのだと田坂は説明する。であるから、人声や雑音に溢れるカフェや喫茶店などが創造的な仕事に適した場所になりうるというのである。

 

第4の身体的技法は、自然の浄化力の中に身を浸すことである。どれほど多忙な日々の中でも、時間を見つけ、工夫をし、自然に触れ、自然に身を浸すようにすると、自然には偉大な浄化力があるため、それによって心身ともに癒される。心が癒される状態とは、心の中のエゴが鎮まっている状態であると田坂はいう。そして、自然の静けさの中で、心の奥から「賢明なもう1人の自分」が現れてくるというのである。大自然を訪れることができなても、近くの神社の森や公園の森でもよいという。

 

第5の身体的技法は、思索のためだけに散策することである。カントやヘーゲルの逸話などに代表されるように、昔から、物事を深く考えるためには「散策」をすることが1つの優れた方法とされてきたという。思索をするために散策する場所は、美しく静かな自然であることは、上記の自然の浄化力の中に身を浸す技法との相乗効果が得られるので理想的であるが、田坂は、散策は必ずしも自然の中である必要はないという。街中や雑踏の中の散策でも、既述の「群衆の中の孤独に身を置く」との相乗効果が得られるし、音楽を聴きながら散策すれば、「音楽の不思議な力を活用する」との相乗効果が得られるという。

 

第6の身体的技法は、瞑想が自然に起こるのを待つことである。瞑想という技法は一般的に思われているほど簡単なものではないと田坂は指摘する。意識的に「深い瞑想の状態に入ろう」「深い禅定の境地に至ろう」と思うと、その意識そのものが「邪念」になってしまい、かえって深い瞑想の状態や深い禅定の境地から遠ざかってしまうからだという。田坂によれば、瞑想の状態や禅定の境地は、意識的に到達しようとするものではなく、瞑想や坐禅の技法を実践するとき、自然に起こるものである。それゆえ、我々がなすべきことは、瞑想や坐禅の技法を実践することを通じて、それが自然に起こる、あるいは「降りてくる」のを待つことなのだという。つまり、賢明なもう1人の自分を引き出そうとするのではなく、それが自然に現れるのを待つということなのである。

 

第7の身体的技法は、すべてを託するという心境で祈ることである。もし我々が「大いなる何か」の存在を信じ、その存在と結びつき、そのことによって必要な叡智が与えられることを祈るならば、「祈る」ことや「拝む」ことは最も基本の技法だと田坂はいう。祈ることや拝むことによって、我々の中から、大いなる何かと繋がる「賢明なもう1人の自分」が現れ、必要なときに必要な叡智を教えてくれるのだという。重要なのは、要求の祈りをしないということである。要求の祈りをするときは、心の中で否定的な感情が渦巻いていたり、エゴが強く働いていたりする。その時は、賢明なもう1人の自分は現れてこないという。賢明なもう1人の自分は、我々の感情やエゴ、願望や欲求には耳を貸さないという性質を持っているということなのである。

文献

田坂広志 2020「直観を磨く 深く考える七つの技法」(講談社現代新書)

直観を磨くための7つの思考法

田坂(2020)は、直観と論理が融合したとき、最高の思考力が生まれると説き、論理思考を超えた思考法として直観思考を挙げる。そして、初級課程としての論理思考、上級課程としての直観思考の間に、身につけるべき中級課程の思考法を含め、深く考えるための7つの思考法を紹介している。それらは「循環論理」「対立止揚」「課題回帰」「水平知性」「体験知性」「多重人格」「自己対話」の思考法である。

 

第1の「循環論理の思考法」は、問題の循環構造を俯瞰しながら考えることであると田坂はいう。世の中の物事は多くが循環構造をしており、解決困難な問題の多くが、いわゆる「悪循環」に陥っているからだという。この思考法では、まず、さまざまな問題が絡み合った問題群を、因果関係のフローチャートなどを用いて俯瞰することで問題の循環構造を発見する。この時、大局観や洞察力が求められる。次に、循環構造の全体に働きかける。「病む時は、全体が病む」からである。そして、循環構造の「ツボ」を見出し、そこに働きかけることである。これは、循環構造の悪循環を断ち切り、反転攻勢に出るためのツボを意味すると田坂はいう。

 

第2の「対立止揚の思考法」は、論理的思考で用いられる「二項対立」で考えるのではなく、問題の矛盾を解決しようとしないで考えることだと田坂はいう。二項対立的な論理思考は、しばしば、目の前の複雑で混沌とした現実を単純化して捉えてしまい、その現実にうまく対処することができなくなるからである。そのため、正・反・合のプロセスによる止揚(アウフヘーベン)を志向する「弁証法」のように、ある1つの考え方(正)に対して、これと対立する考え方(反)を取り上げ、これら一見対立するものを、より高い次元で統合していく思考プロセスを行う。すなわち、対立するものを超えて、より高い視点に立って考えることだと田坂はいう。

 

第3の「課題回帰の思考法」は、田坂によれば、「解決の方法」を考えるのではなく、「解決すべき課題」を考える方法である。解決の方法ばかりにとらわれると、視野狭窄に陥り、解決すべき課題を見失ってしまうことを防ぐための思考法でもある。創造的な人は馬鹿げた発想ができるが、それは、解決の方法に目を奪われることなく、解決すべき課題に目を向けることによって可能になることが多い。本質的な問題に目を向けることによって視野狭窄を脱し、まったく斬新な解決策を発想できたりするのだと田坂は示唆する。また田坂は、問題解決の鍵を「最先端の技術」や「革新的な制度」に求める傾向があるが、しばしば、その問題解決のための本当の鍵は「人間心理の機微」にあることも併せて指摘する。

 

第4の「水平知性の思考法」は、1つの専門分野を深く掘り下げる知的能力である「垂直知性」とは異なり、さまざまな専門分野を横断的、水平的に結びつけて物事を考える知的能力に対応していると田坂はいう。これからの時代は、世の中の物事がますます複雑に絡み合い、1つの専門分野だけで問題を解決することが困難になっていくため、さまざまな専門分野を結びつけて解決策を見出していく水平知性こそが重要になってくるのだという。そして、水平知性を身につけるために田坂が実践していることとして、心の中で、「深く大きな問い」を問い続け、本を読むとき、答えを希求しながら「触発的コンセプト」だけを掴みながら読み、著書を執筆するとき、本質を理解するために「わかりやすい言葉」にこだわっているという。

 

第5の「体験知性の思考法」とは、書物や雑誌、新聞やウェブなどによって得られた文献知によって考える「文献知性」(言葉で表せる知)ではなく、自身の経験や体験を通じて得られた「体験知」(言葉で表せない智恵)によって考えることだと田坂はいう。文献知のみで考えると、体験知も含めて考えた場合と比べ、「浅い思考」に陥ってしまうと田坂は指摘する。言葉で表せる以上のことを知っていることを「暗黙知」と言い、日本語ではこれを「智恵」と呼んできたと田坂は説く。貴重な経験から「体験知」を学びとるためには、経験の追体験をし、体験知を振り返り、体験知の言語化をしてみるといった「反省の技法」を身につけることだという。また、経験の浅さは、疑似体験によって補えるという。

 

第6の「多重人格の思考法」とは、自分の中に複数の人格を育て、人格を切り替えながら考える方法である。これは「自己視点」で考えるのではなく、「他者視点」で考え、さらに「多重人格視点」で考えることでもある。我々の心の中の「エゴ」が強く、エゴの動きに身を任せていると、物事を見る視点や考える視点が、必然的に自分中心の視点になってしまう。よって、エゴを否定も肯定もせず、ただ静かに見つめる「静かな観察者」を自分の心の中に生み出すことで、自分中心の視点に陥りそうになったとき、静かな観察者が警句を心の中で発してくれるという。また、自分自身が他人と同等の経験がなければ、他人の視点や立場や気持ちになって考えるための想像力が働かないため、「苦労」の経験が与えられた時は、それを「他人の視点」を学ぶための好機と思い、苦しさや辛さ、悲しさや寂しさといった心の動きを見つめることが重要だという。

 

第7の「自己対話の思考法」とは、心の奥の「もう1人の賢明な自分」と対話しながら考えることだと田坂はいう。賢明なもう1人の自分は、論理思考を超えた鋭い直感力を有しており、データベースを超えた、膨大な記憶力を持っている。そして、自己限定をしないことで、必要な叡智が自然に降りてくると信じて考える。これは深く考えるための上級課程の思考法だと田坂はいう。この思考を行うための技法は7つあると田坂はいう。

 

1つ目は、まず、自分の考えを文章に書き出してみることである。そして一度時間を置き、心を整え、静かな心で、その文章を読み直す。すると、心の奥深くから、賢明なもう1人の自分が現れ、その文章を違う視点から見ることで考えを深めてくれるという。2つ目は、心の奥底の賢明なもう1人の自分に問いを投げかけることだと田坂はいう。もう1人の自分は、心の奥深くで「自問自答」に静かに耳を傾けているからである。そしてしばしばその問いに刺激を受け、動き出し、ふとした形でその答えを出してくれるという。

 

3つ目は、徹底的に考えた後、一度、その「問い」を忘れることである。賢明なもう1人の自分は、我々の表面意識で「答えを知りたい」という気持ちが強すぎると働かない。なぜならば、それは自分のエゴが強く働いている状態だからである。天才的なアイデアは、必死に考え、考え尽くして、疲れ果て、一度その問題から離れているときに、突如、閃くことが多いのだと田坂はいう。4つ目は、意図的に、賢明なもう1人の自分を追い詰めることである。分野を問わず熟練のプロフェッショナルは、自分の中から賢明なもう1人の自分を引き出し、その「直観」を引き出すために、自らの退路を断ち、自らを追い詰める技法を身につけているという。意図的に自分を追い詰めたとき、賢明なもう1人の自分が動き出すという。

 

5つ目は、ときに、賢明なもう1人の自分と禅問答をすることである。それは、論理的に「対極の言葉」を結びつけて考えることである。対極の言葉や、逆説の言葉を、賢明なもう1人の自分に投げかけることは、深い叡智を得る優れた技法に他ならないと田坂はいう。6つ目は、1つの「格言」を、1冊の「本」のように読むことである。その時、1つ1つの格言の意味を「理屈」で解釈するのではなく、読んだ瞬間に心に響く格言を「直観」によって見つけていくことである。そして、なぜその格言が心に響くのかを、自身の人生の「体験」に照らし合わせて考えてみる。本来、格言は、それを語った人間の意図や思想を超えて広がり、受け継がれていくものであるから、それを読む人それぞれの、自由な解釈、多様な解釈に委ねられるべきものなのだと田坂は主張する。そして、その格言を加筆・修正してみると、賢明なもう1人の自分との対話が可能になるという。

 

最後の7つ目は、思索的なエッセイを「視点の転換」に注意して読むことである。思考や思索を深めることは、物事を見つめる「視点」を深めていくことに他ならない。そのために、まず「始まりの視点」に注目し、次に「視点の転換」に注目し、そして「異なった視点の結合」に注目するのが良いと田坂はいう。そして、思索的なエッセイを推理小説のように読むという技法も有効だと田坂は指摘する。

文献

田坂広志 2020「直観を磨く 深く考える七つの技法」(講談社現代新書)

ポスト資本主義の社会構想2:資本主義・社会主義・エコロジーの交差

市場経済を利用した不断の拡大・成長を前提とする資本主義社会が、需要の飽和や富の偏在、地球環境・資源の制約から成長の限界に直面し、今後定常化社会に向かうことが予想される。そこで求められる新たな価値観や社会構想とは何か。前回は、資本主義と近代科学が無限の拡大・成長を志向する原動力の両輪であり、最近の科学の変容が、近代科学の進展によって「自然」や「コミュニティ」から離陸していった人間をもう一度自然、コミュニティへ着陸させる方向性と重なっているという広井の視点を説明した。今回は、「時間政策」「資本主義の社会化」「コミュニティ経済」を柱として、「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」を定常化されたポスト資本主義の社会構想とする広井の考えを紹介する。

 

資本主義のシステムには2つのパラドックスが内在していることを広井は示す。1つ目は、生産性のパラドックスで、それが「過剰による貧困」をもたらす。資本主義は元来、労働生産性の向上によって生まれる過剰な労働力が別の新たな生産に従事することによって次々と新たな需要が生み出され社会全体が良くなっていくという無限のサイクルが想定されていた。しかし実際には、生産性が上がれば上がるほど失業が増えるというパラドックスが存在すると広井は論じる。生産性が最高度に上がった社会では少人数の労働で多くの生産が上げられることになり、人々の需要を満たすことができるので、その結果おのずと多数の人が失業するということである。そして、失業は貧困につながるため、過剰→失業→貧困というように、生産性の向上が「過剰による貧困」の状況を生み出してしまうのである。

 

これに対処するためには、「過剰の抑制」というのがポスト資本主義社会に向けた指針となりうることを広井は示唆する。その政策の1つが「時間政策」である。これは、人々の賃金労働時間を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり時間を再配分して、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうという政策である。それをさらに発展させた、時間環境政策という公共政策の方向性も広井は提唱する。これは、エネルギーを大量に使って時間を短縮すること、すなわち自然の搾取を通じてスピードを上げ、生産性を高めることによって現代人が身体的にもスピードについていけない状態になっているのを、時間環境をゆるやかにすることで、エネルギーや資源消費を減らすことを意味する。

 

上記はつまり、労働生産性から環境効率性(資源生産性)へという方向性を示している。かつての時代は、人手が足りず、自然資源が十分ある状態だったので、労働生産性が重要だった。しかし今は全く逆で、人手が余り、自然資源が足りない状態になっているため、人を積極的に使い、自然資源の消費や環境負荷を抑えるという環境効率性(資源生産性)を高める方向が重要だということである。資源・環境制約の顕在化と需要の成熟・飽和という状況を背景に、過剰の抑制をし、以下に示すように資本主義の社会化というものが行われる。すなわち、資本主義・社会主義・エコロジーのクロスオーバーというのが1つの重要な視点となるだ。

 

資本主義が内包する2つ目のパラドックスは、資本主義の根幹を支えるための社会主義化というパラドックスである。近代の資本主義は、「独立した均質な個人によって成立する社会において、個人が市場経済の中で自由な経済活動を行う」ことを前提としていた。この前提が成り立つためには、個人が人生のはじめにおいて「共通のスタートライン」に立てることが必要不可欠である。しかし、現実の社会において個人は裸の個人として均等に生まれてくるわけではなく、家族や家系など継承性の中でこそ存在している。自由な経済活動に伴う競争によってある世代でストックに格差が生じるならば、政府による介入によってそれらの再配分ないし社会化を行わなければ、前の世代に生じた格差が継承されてしまい、機会の平等が損なわれ、格差の相続、貧困の連鎖が生じてしまう。

 

つまり、個人の「機会の平等」「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、政府による市場経済への介入といった、ある意味で社会主義的といえる対応が必要になるというパラドックスが存在すると広井はいうのである。重要なのは、資本主義の歴史的進化の中で、政府による社会主義的な市場経済への介入は、システムの末端部分における救貧法のような事後的な介入から始まり、その後、事前的な社会保険や政府による雇用そのものの創出など、資本主義の根幹の部分にさかのぼった介入へと拡張し、資本主義を順次「社会化」し、システムの中に社会主義的な要素を導入してきたことである。個人の「自由」の保障は、「自由放任」によっては実現せず、むしろそれは積極的に社会によって「作って」いくものなのだというわけである。これが「資本主義の社会化」である。

 

さらに広井は、ローカルなコミュニティに基盤を置く「コミュニティ経済」という構想を挙げる。これは、ローカリゼーションあるいは地域への人々の着陸を志向するものである。工業化時代あるいは高度成長期の社会資本整備は、主にナショナルな空間範囲に関わるもので、国レベルの中央集権的なプランニングにもっともなじみやすい性格のものであった。そして、工業化社会の社会資本が成熟・飽和状態となった後の金融化・情報化の波は、グローバルな性格を持つものである。そして、この波がさらに成熟・飽和した後にくるのは、福祉、環境、文化、まちづくり、農業といったローカルな性格の領域だろうと広井は予想する。経済の空間的ユニットがローカルなものへとシフトしていく時代に重要になってくるのは、地域においてヒト、モノ、カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ的なつながりも生まれるような経済のありようだと広井は説く。

 

そして広井は、「時間政策」「資本主義の社会化」「コミュニティ経済」を含んだ全体として、自然エネルギーを軸に、資本主義が前提とする限りない拡大・成長を前提としないような、エコロジーと結びついた福祉国家、あるいは脱成長の福祉国家のあり方としての「緑の福祉国家、持続可能な福祉社会」というポスト資本主義の社会構想を示す。これは、福祉国家自体が資本主義と社会主義の一種の結合形態であるので、先述のとおり、資本主義・社会主義・エコロジーのクロスオーバーという理解ができる。資本主義的な拡大・成長ではなく、(地域内)循環に軸足を置いたコミュニティ経済が発展していけば、それは自ずと過剰の抑制につながり、かつそこでさまざまな雇用やコミュニティ的つながりが生まれて来れば、格差の是正にも一定度合い寄与し、再配分の前提条件を緩和させることにつながる。

 

広井によれば、緑の福祉国家、持続可能な福祉社会の基本的な特徴は、ローカルな経済循環から出発し、地域間の再分配(都市ー農村間の不均衡の是正を含む)の仕組みを重層的に組み込みながらナショナル、グローバルへと積み上げていくような社会である。同時にそこでは、時間政策が導入され、さまざまな社会保障や再分配システムが採用され、これらを通じて過剰の抑制や個人の生活保障ないし分配の公正が図られている。ただ、21世紀は、なお限りない「拡大・成長」を志向するベクトルと、成熟そして定常化を志向するベクトルとの深いレベルでの対立ないしせめぎ合いの時代となるだろうと広井はいう。しかし、世界の持続可能性や人々の幸福という価値を基準にとった場合、定常化あるいは持続可能な福祉社会への道こそが、私たちが実現していくべき方向ではないかと広井は主張するのである。

文献

広井良典 2015「ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来」(岩波新書)

 

ポスト資本主義の社会構想1:資本主義と近代科学の同型性

広井(2015)は、今の時代は人類史の中でもかなり特異な、「成長・拡大から成熟・定常化」への大きな移行期であるのではないかと指摘する。資本主義社会での拡大・成長の追求は人間の幸せや精神的充足をもたらさないことを人々が強く感じ始めているという。また、21世紀後半に向けて世界は、高齢化が高度に進み、人口や資源消費も均衡化するような、ある定常点に向かいつつあり、そうならなければ持続可能でない。広井によれば、人間の歴史には「拡大・成長」と「定常化」のサイクルが繰り返されており、それは、人間のエネルギーの利用形態、あるいは「人間による自然の搾取の度合い」によってもたらされる。

 

これまでの人類史で、狩猟採集による自然の搾取が拡大・成長の第一段階だとすれば、その後の定常化を経た後の農耕の開始による自然の搾取が第二段階、さらにその後の定常化を経て起こった化石燃料を用いる工業化の時代が自然の搾取の第三段階だという。そして拡大・成長から定常化に向かう移行期には、物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へという方向を導く変化があったのではないかと広井はいう。例えば、狩猟採集段階の後半では、心のビッグバンとも呼ばれる装飾や広義の芸術への関心、自然信仰が生まれ、農耕社会の終期には普遍思想や普遍宗教が生まれた。今の時代が人類史における第三の定常化の時代だとすれば、それらに匹敵するような根本的に新しい何かの価値原理や思想が要請される時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないかと広井はいうのである。

 

すなわち、現代社会を支配している資本主義というシステムにおいて不断の「拡大・成長」を不可避の前提とするならば、「成熟・定常化」への大きな移行期では、何らかの意味で資本主義とは異質な原理や価値を内包する社会像を要請することになるだろうというわけである。このような文脈において、「ポスト資本主義」と呼ぶべき社会の構想が、新たな科学や価値のありようと一体のものとして、思考の根底にさかのぼる形で今求められているのではないかというのである。では、そのような新たな社会の構想とはどのようなものであろうか。まずは、資本主義の理解から話を進めてみよう。

 

広井によれば、資本主義とは「市場経済プラス(限りない)拡大・成長を思考するシステム」である。市場経済そのものは古代から存在しているが、それが貨幣(資本)の量的な増大を追求するシステムとしての「拡大・成長」の強力なドライブと一体となって作動するとき、それが資本主義として立ち現れてくるという。資本主義では、個人が共同体の拘束を離れて自由に経済活動を行うことができ、かつそうした個人の活動が経済や資源の総量の拡大を促すことで社会全体の利益になるという論理と、人間は(産業)技術を通じて自然をいくらでも開発することができ、そこから大きな利益を引き出すことができるという論理とが強固に結びついているという。

 

つまり、「資本主義=市場経済プラス拡大・成長」という定義において、上記の個人の独立という論理が「市場経済」と対応しており、人間による自然支配が「拡大・成長」と対応している。それを通して経済のパイの拡大・成長がそれまでにない大規模な形で追求されていったのが、現代に至る300年ほどの近代資本主義の時代だというわけである。この近代という時代は、人間は、存在の根底にある「コミュニティ」や「自然」といった土台から離陸していった時代であることを広井は示唆する。つまり、自由な経済活動と市場経済の拡大とともに、「コミュニティからの個人の独立」が生じ、工業化と自然資源の開発・搾取を通じて個人の領域が自然の領域を強力にコントロールしながら「自然からの人間の独立」が生じたのである。

 

しかし、無限の拡大・成長を志向する資本主義経済だけが自立して存続しうると考えるのは間違っていると広井は主張する。なぜならば、人間の経済はその基盤に「自然」という有限な領域を持っており、その枠の中でこそ存続できるのだし、同時にそれは「コミュニティ」という基盤を持ち、そこから市場経済がただ乖離していけば、様々な格差や分断が生まれ、結果として個人や人間にとっての土台そのものを侵食することになる。であるから、拡大・成長から定常化に向けて、人間をコミュニティや自然にもう一度つなぎ、着陸させる必要性があると広井は主張する。個人あるいは市場経済の領域を、そのベースにあるコミュニティや自然にもう一度つなぎ、着陸させていくような社会システムの構想が求められるというわけである。

 

上記の議論を展開するにあたって、広井は、資本主義は西欧近代科学の基本的な世界観や態度と同じ構造を持っているのではないかと論じ、それゆえ、科学革命の世紀が資本主義の本格的始動期でもあったように、資本主義と近代科学がパラレルに発展してきたことを示唆する。産業革命以降は技術と科学が強力に結びつき、科学が社会制度化され、科学研究が技術革新のベースとして重要な役割を果たしてきたのである。

 

資本主義との同型性をもたらした近代科学の特質として、広井は、自然支配ないし自然と人間の切断を背景とする「法則」の追求と、共同体からの個人の独立を背景とする帰納的合理性(ないしは要素還元主義)を挙げている。前者は、自然法則を明らかにすることでそれを通じて自然をコントロールする志向であり、人間と自然を切り離した上で、人間は自然を支配し利用し尽くすことができるという世界観を示している。後者は、様々な事象を中立的・第三者的な観点から実証的・帰納的に把握し、それらを個々の要素の集合体として理解する志向であり、社会は独立した個人から成り立つもので、そうした異質な個人にとって説得力を持つような説明の様式であることを示唆しているという。これは、先述の通り、人間が「自然」や「コミュニティ」といった土台から離陸し切断されていった時代とシンクロしている。

 

それでは、「ポスト資本主義」とも呼ぶべき、資本主義とは異質な原理や価値を内包する社会像について、近年の科学の変容は何を示唆するのだろうか。広井は、近代科学の先にあるものとして、まず、「法則」の追求からの変容として、人間と切断された、単なる支配の対象としての受動的な自然でなく、人間と相互作用し、かつ何らかの内発性を備えた自然理解、また、一元的な法則への還元でなく、対象の多様性や個別性ないし事象の一回性に着目するような把握のあり方を挙げる。そして、帰納的合理性(要素還元主義)からの変容として、個人ないし個体を共同体的な(あるいは他者との)関係性においてとらえるとともに、世代間の継承性を含む長い時間軸の中で位置付けるような理解、また要素還元的ではなく、要素間の連関や全体性に注目するような把握のあり方を挙げる。

 

上記のような科学の変容を一言でいえば、近代科学は「自然はすべて機械」だとする機械論的自然観として出発し、ニュートン的な神(=世界の駆動因)を外部に置くことでそれ以前のアニミズムをいったん捨て去ったのだが、その後の科学の発展は、そのアニミズム的要素、生ける自然もしくは自然の内発性を、世界の内部に新たな形で取り戻していく流れにあるということだと広井は示唆する。それは、人間と自然、個人とコミュニティという2つの局面において、近代科学によって切断された関係性をもう一度つないでいく方向とも重なると広井はいう。すなわち、「自然」や「コミュニティ」から離陸していった人間をもう一度着陸させる方向性と重なっているわけである。

文献

広井良典 2015「ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来」(岩波新書)

 

社会学とはどんな学問なのか

社会学というのは文字通り社会を研究する学問だと言えるが、社会に関することであればなんでもありという感じで、経済学や政治学などの他の社会科学と比べて具体的にどのような学問なのかイメージがつきにくい。これについて稲葉(2025)は、社会学の総論として、社会学の基礎理論・原論を解説している。稲葉が答える「社会学とは何か」を先に言ってしまえば、社会学とは「社会的に共有される意味・形式の可変性・多様性についての学問」ということになる。ここでのポイントは、「社会的に共有される意味・形式」の部分と、「可変性・多様性」の部分である。

 

稲葉は、社会学を同じ社会科学でも経済学のような学問と異なっている点を理解するための方法論として、「方法論的個人主義」を挙げる。この方法論では、社会を「個人の集まり」と考え、もっと極端に言えば、社会というものは存在せず、実在するのは個人であり、社会とはその集まりに過ぎないと考える。例えば経済学では、個人を自己の利益を目指す「合理的経済人」であると単一的に仮定し、その相互作用を思考実験的にモデル化することで社会現象を理解しようとする。つまり、シンプルな前提から積み上げて、複雑な現実を説明しようとする。

 

一方、社会学が依拠するのは、「方法論的全体主義社会主義」だと稲葉は説明する。ここでいう全体主義社会主義はあくまで方法論の話で政治的な意味合いはない。方法論的全体主義社会主義では、一人ひとりの個人には必ず社会的コンテキストが先行しているのであり、社会というものは、互いに役割が異なるたくさんの細胞の相互依存のネットワークからなる生物個体と同じように複雑なシステムであると考える。社会学はそのような社会の複雑なシステムに準拠する必要があり。その水準の固有性は、一人ひとりの個人から出発して積み上げただけでは十分理解できないと考える。

 

さらに稲葉は、社会学が依拠する「形式主義」について説明する。この考え方は、「全体」としての社会を何らかの「実体」とみなす社会有機体説のようなアプローチではなく、社会学的な「全体」を「形式」とみなす。つまり、社会現象において、言語を含めた共通するある特徴、関係する人々の間で、一定の意味やルールが共有されて初めて成り立つ相互行為として社会学の固有の対象を理解しようとする。あるいはこうした共同行為を可能にする意味やルールを社会学の固有の対象と考える。乱暴に言えば、人間という「素材」に対して、社会的に共有される「知識」「情報」という「形式」が秩序を与えると考える。

 

方法論的全体主義社会主義および形式主義に依拠する社会学では、生き物としてのヒトはまだ社会的な存在としての個人そのものではなく、むしろ社会的に共有された「意味」のネットワーク、知識のシステムを取り込み、それに慣れることによって生物学的な意味でのヒトが社会学的な意味での「人間」になると考える。社会的な形式、人々が共有している知識とか振る舞い方、言語とか技術とか生活習慣といったものを全てひっくるめて、広い意味での「文化」と呼ぶことができる。そうなると、社会学の固有の対象とは「文化」であると言えなくもないと稲葉はいう。

 

上記までの説明で、社会学とは何かに関する「社会的に共有される意味・形式」の部分についての理解は進んだ。次に、「可変性・多様性」についての理解を深めよう。この理解のためには、社会学がいかに成立したのかの理解が必要となることを稲葉は示唆する。まず、社会学前史におけるヒュームやアダム・スミスモンテスキューの思想において、意図せざる結果として社会秩序の形成を理解する視点がはっきりしてきた。つまり、人々を動かす共有された形式は、必ずしも意図的に作られたものではないという視点である。

 

そして、近代の「自意識」とも言えるモダニズムの時代に入ると、社会学とは「近代とは何か」を問う学問であるという視点が現れた。おおかたの近代社会科学が、ただ近代の中にいるだけであるのに対し、社会学は近代の中にいながら、同時にその自分の居場所としての「近代」とは何かを問う、ひねくれた意識の産物だと稲葉は指摘する。社会学の確立自体が学問における「モダニズム」の一例だというのである。例えば、フロイトの「人間の精神には自分ではどうしようもない領域がある」という認識への到達は、意図的な行為の主体としての人間の精神を、前もって拘束するものとして捉えられているという点で、社会学の問題意識と共鳴しているというのである。

 

そして、社会学古典の二大巨頭であるデュルケルムとウェーバーにおいて、近代化によって資本主義的市場経済が発展していく中で分業が進行し、人々がやることがバラバラになって社会的連帯が解体していくことや、ヨーロッパ近代の「合理主義」が、伝統という足場を自己解体し、普通の人々の生活を合理的組織化に巻き込んでいくことなどが指摘された。稲葉によれば、モダニズムの時代とは、社会学を含め、人間が作るものとしてではなく、人間の意識や行動に先立って成り立っており、それらをあらかじめ制約しつつ基礎づけるものとしての「意味・形式」についての関心が爆発した時代であった。それは同時に、それまで支配的だった文化・芸術のありように対する懐疑の爆発でもあった。

 

また、自由主義かつ個人主義で、自由で理性的な個人への信頼と共に、個人を伝統の重みから解放できるという理想を楽観的に追求した「素朴な近代」に対して、鬱陶しくてもわかりやすかったかつての「伝統」とは異なり、不透明で不安定な何か、不気味な経験が「群衆」「大衆」といった言葉で表現されるようになり、それが社会学への世間的なニーズの母胎になっていったと稲葉は指摘する。つまり、素朴な近代のもとで個人の解放という理想が少しずつ実現していくにつれ、社会は透明で見通しやすくなるどころか、かえって不透明になっていった。

 

つまり、伝統のくびきが取れ、個人による構築物として社会が捉え直されるかと思いきや、かつてとはまた異なる形で、個人の外側にあって個人を制約する「社会的なもの」に人々は取り憑かれ、これに迫ろうとするのが社会学なのだと稲葉はいう。近代以前の社会でも、個人の理性に先立ち、前もって神やご先祖様が用意した意味・形式の集積(=伝統)の支配を受けていた。人々はそうした社会的な意味・形式の秩序を不変の「伝統」として捉えていたのに対し、近代以降の社会においては、そのような社会的な意味・形式が変わりうること、それは歴史的・時間的に変化するし、地理的・空間的にもさまざまに異なりうることを知ってしまったという。

 

上記の展開は、社会秩序のありようや、そこで暮らす人々の生活様式・価値観は多種多様で多元的であるという理解も相まって、社会的に共有される意味・形式の可変性・多様性についての学問という社会学の位置付けにつながっていったのだと稲葉は説くのである。近代とはある意味、伝統の反省なのであるが、その近代自体もそれ自体が長く続くと一種の伝統と化してしまうので、それ自体の反省が行われる。このような「再帰的近代化」として社会学が本格的に目覚めてくる。つまり、社会学は「意味・形式についての学問」であると同時に、「危機の時代」に「危機意識」をもって生まれた「危機」についての学問でもある。「危機」というのが変化、とりわけ安定した何事かの変化、安定した状態の崩壊を意味することが、社会学が「意味・形式変容の可能性」についての学問であることの根拠なのである。

文献

稲葉振一郎 2025「完全版 社会学入門: 資本主義と〈近代〉を捉えなおす」(NHKブックス 1297)

価値観の転換を迫られる世界で求められる日本の国語教育

渡邊(2025)は、地球規模で進行している経済格差の拡大、気候変動、生態系の破壊といった課題が、これまでの社会が抱える矛盾を看過できない段階にしていると指摘する。それにより、資本主義や科学の枠組みそのものが根本的な転換を迫られ、私たちの世界観や哲学的基盤も近代とは異なる方向に変化しているという。しかし、日本には、近代の矛盾を克服する価値観がすでに存在し、その価値観は逆説的にも近代の学校を通して広く継承されてきたと渡邊は主張する。その価値観と教育を一言で表現すれば、共感的利他主義をベースに政治・経済・法・社会の多元的思考を使い分け、他者と協働する力を養う教育で、五感を働かせた体験に基づいて感情を伝えあい、共感を育む日本の国語教育である。

 

そもそも、近代が抱える深刻な矛盾を克服し、ポスト近代に向けてどのような価値観の転換が求められるのか。渡邊は、近代の矛盾の核心として、「自然と切り離された人間」とそれに起因する「利己主義」を挙げる。西洋の近代社会は、個人主義と合理的経済人としての利己主義を認め、拡大・成長プロセスそのものを目的として追求する資本主義という仕組みを確立させ、宗教的倫理から切り離された科学が経済発展のための道具となり国防のための道具となっていった。近代において、資本主義という経済合理性が支配的な原理となって規範や政治、社会領域にまで浸透した結果、自然は資源として人間が利用し搾取する対象となってしまったと指摘する。自然破壊と格差の問題の根はこの自然観の変化にあるという。

 

これに対し、ポスト近代の価値観とは、「自然と切り離された人間」と「利己主義」を、「自然の一部としての人間」から導かれる「利他主義」へと転換することだと渡邊は説く。資本主義を回すための利益追求の経済から、自然と生態系の維持、人々の生存と幸福の増進を目的とする経済に転換すること。そして、経済が目的でなく、経済が手段となる社会。経済の「拡大・成長」から「持続可能な低成長」への転換。すなわち、低成長を前提とし、利他に基づく「少ないほうが豊かな社会」。このように根源的な原理が切り替えられた時、近代は終わり、「自然の一部としての人間/利他主義」の原理で自己組織化された新たな時代に足を踏み入れると渡邊はいう。

 

つまり渡邊は、人間と自然の関係を、自然を収奪の対象とする見方から、人間を自然の一部と捉える発想へと転換する必要があり、この新しい自然観に基づき、個人主義・利己主義的な価値から利他主義へと価値を転換することが世界的に求められているというのである。また、近代においては自由競争に力点が置かれ、競争原理に基づいて作られる制度が多かったが、個人主義・利己主義から利他主義へのシフトによって協調と相互扶助へと社会制度の原理が変化するという。それにより、新しい時代は、西洋近代の「中心化・統合化」された世界から脱却し、各人がそれぞれの価値観に基づいて生きる「多元的社会」へ移行すると言われているというエスコバルの主張を紹介する。

 

そして、自然の一部としての人間および利他主義への価値観の転換を迫られる世界で求められる教育として見本となりうるのが共感の論理を養う日本の国語教育であることを渡邊は示唆するのである。渡邊によれば、五感を働かせた体験に基づいて感情を伝えあい、共感を育む日本の国語教育は、世界から遅れた弱みではなく、強みである。人間と自然の関係を結び直し、共感的利他主義をベースに政治・経済・法・社会の多元的思考を使い分け、他者と協働する力を養うことが可能だからである。このような教育の中でもとりわけ重要な役割を担うのが以下に説明する「作文教育」とりわけ、生活の中の直接の体験や、自己の見聞、読書、視聴したことについて、自分の感じたこと、思ったことを書き記す「感想文」による教育であると渡邊は指摘する。

 

人は作文を書くことを通して認知と思考の型が形作られていく。学校で習う作文の型に沿って、私たちは情報を選び、それらをつなげて結論へと導く。その過程で「論理」を習得している。このような論理の型は、私たちが世界をどのように見て、どのような視点から理解するのかといった世界観の形成に深くかかわっているという。また、作文教育は、その社会で受け入れやすい結論の形や、結論を導くために重要とされる情報の選び方、他者の視点をどの程度取り入れるべきかといったように、適切な感情と自己表現の方法についての社会規範を教える。さらに、作文は、知識をその国で認められた能力に変換する装置として能力発揮の方法となるという。このように、作文は個人の認知から社会規範や道徳、能力の発揮方法まで、社会で生きていくための実に幅広く深い知識と技術を教えると渡邊は指摘する。

 

渡邊によれば、日本の作文教育の基本は「感想文」である。感想文では、序論で書く対象の背景と書き手が対象に対して持っていた感想(理解・知識・考え・感情)を書き、本論で対象を通した書き手の体験を述べ、結論で体験後の感想を述べる。体験の前後での書き手の気持ちや考えの「変化」を感想という形で述べさせることで、体験を通した自己の成長の軌跡を描かせ、その体験を今後どう自分の行為や生き方に活かすのかを考えさせる。感想そのものは「当事者性と切実性」を持って書けるかで決まる。つまり、感想文で期待されているのは個人の体験・感情・生き方を社会の構成員である他者と共有しうる「共通感覚」として表現すること、つまり「間主観」の表現として提示することにあると渡邊は主張するのである。

 

渡邊が説く社会原理では、普遍的で絶対的な倫理というよりは、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった「利他」の考えに基づく「善意」が間主観と道徳を形成する。こうして獲得された道徳観は社会生活のあらゆる場面で発揮され、社会秩序の維持に貢献する。とりわけ日本における利他主義の特徴は、日常における他者との経験の積み重ねを通して、その時々の状況を捉えながら、私欲をとりはらって相手が何を望んでいるのかを瞬時に感じ取る、共感による利他である。この共感的利他主義が、近現代の経済原理の利己主義に代わるポスト近代の中心的価値観となると渡邊は主張するのである。

 

一方、価値の多元化が起こるポスト近代においては、多元的に思考することも共存の鍵となると渡邊はいう。これに関して、以下のような共感的利他と多元的思考を育む段階的作文教育ともいえる教育のグランドデザインを渡邊は提案する。まず小学校低学年では感想文を通して社会原理の基盤となる共感的利他を育む。子供たちは自分の体験をもとに「何を感じたか」「どのような気持ちだったか」を文章化し、それを互いに読み合うことで、人間への共感力、情緒、利他の道徳的規範を学ぶ。また、自然を観察し描写する訓練によって自然に対する畏敬の念を抱かせる。小学校高学年では、出来事の時間経過を含む「物語」の構造を教え、時間の経過を意味のまとまりとして捉えることができるようにする。さらに、ものの仕組みや機能を説明する訓練も行う。

 

中学校からは抽象度を高めながら多元的思考を養うための訓練へと移行する。その1つが論証文を書いて論証することを学ぶことである。経験的な時間の流れではなく、論理によって展開する思考の枠組みを作らせる。並行して、論理の道筋や展開を明らかにする接続語を使いこなす訓練をする。英語教育では、主張を大切にするアメリカ式エッセイも学ぶ。結論先行で話したり書いたりする力、直線的で分かりやすい表現は、ビジネスの世界で役立つ。高校では、自然科学の方法を基にして経験的事実で実証する様式である仮説検証の書き方と、理論や概念を使って主張を論証する様式である小論文を学ぶ。

 

大学では、思考法の多元性を理解してから専門領域を学ぶ。具体的には、体系的な知としての特徴、つまり各分野は、どのような目的をもって、何を対象に、いかなる方法を使うのか、その思考の特徴は何かを学ぶ。これが抽象化の学びである。このように、小学校で共感的利他の社会原理を身に着けさせた後は抽象度を高めながら経済と政治原理の思考法が身に着く様式を順番に学ぶ。そうすることで、最終的に、共感的利他の社会原理を人格形成の核に持ちながら、多元的に思考できる人を育てると渡邊はいうのである。

文献

渡邉雅子 2025「共感の論理──日本から始まる教育革命」(岩波新書 新赤版)