私の内部で時間は流れ、その時間の中で私は存在する

私たち人間は、石器時代に完成したハードウェア(脳、認知機能)と、人類が生み出した言語や数学といった道具を組み合わせて世界を認識している。そのような人間が、絶対空間の中の「平らな地面」で暮らし、「絶対的な時間が過去から現在、未来へと均一に流れる」という認識をしていても、日常生活になんら支障をもたらさない。しかし、近代科学は早々と、「物理世界においては地面が平らなのは間違っており、実際は球体(地球)である」ことを明らかにし、現在の私たちはそれを当たり前のように受け入れている。そして、現代科学でも、物理世界では「絶対的な時間が過去から現在、未来へと均一に流れる」という私たちが直感的に抱きそうなイメージが間違っていることを示してしまった。ただ、こちらはまだ万人が受容するほどには浸透していない。


吉田(2020)によれば、現代科学が明らかにしたことは、まず、物理世界においては「宇宙全域に均一の時間が流れている」という素朴な考えが間違っているということである。例えば相対性理論では、同じ時刻を単一に決められず、単一でない「いま」が宇宙のあちこちに存在する。相対性理論における時間の遅れや浦島効果の例が示す通り、場所によって時間の尺度が異なるのだから、あらゆる場所に個別の時間が存在する。そして、時間は流れるものではなく、空間と同じような拡がりである。相対性理論では、時間は空間と一緒になって「時空」という物理的実在を構成している。時空は拡がりの概念なので、時間軸には過去・現在・未来のような区別がなく、時間の経過という概念もない。つまり、現代科学が明らかにしたのは、物理現象が過去から未来へと順番に決まっていくわけでもなく、新しいことが時間軸に沿ってダイナミックに生成されるわけでもないのである。


時間と空間を同じ拡がりであるといわれても、空間に拡がりがあるのは分かるが、時間に拡がりがあるというのは理解しずらいであろう。その理由は、人間の認識能力の限界にあることを吉田は指摘する。物理現象を「時空」をつかって理解する上では、本来ならば、時間と空間を同じ単位でそろえるのが望ましい。しかし、そうするとどうなるかというと、空間軸の1メートルに対応する時間軸の1単位は、300億分の1秒になってしまう。これはこの宇宙では唯一速度が絶対的に不変である光の速さが基準になっているからである。時間軸を1秒に設定しても、それに対応する空間軸は300憶メートルになってしまう。いずれにせよ、そのような単位を持つ時空は人間が無理なく認識できる範囲をとうに超えている。


上記のように、時空を直感的に理解するのは人間の認識能力ではかなり困難ではあるのだが、あえてその時空概念にもとづいて物理学的に正しい理解を示すならば、私は時間の経過とともに様々な体験をしながら存在し続けるのではなく(素朴な時間理解)、時空の中において、空間軸と時間軸における拡がりの中で存在しているにすぎない(現代科学的理解)。空間軸と時間軸に沿って伸びているという表現でもいいかもしれない。無理やり時間を空間のメタファーで表現するならば、例えば、私の空間上の長さが、縦横高さ平均して1メートルだとすれば、その私は、時間軸では、300憶メートル分の長さをもった存在だと理解できる。そしてそれはもちろん、私と独立して存在する絶対的な空間や時間の中にいるわけではなく、その空間と時間はその場所にしかない個別のものであり、もっといえば私自身の一部でもあるといってもよいだろう。


このように、現代科学の立場から物理世界の時間を理解するならば、時間とは私たちが素朴に抱いているイメージとは全く異なる物理的実在だということになる。では、時間が過去・現在・未来へと流れていくのは間違っていると断言してよいのだろうか。それに対し、吉田は異なる視点を提供する。それは、時間の流れというのは物理現象ではなく、人間の意識に由来するものなのだという理解である。つまり、私たちにとって、時間が流れるのは真実であるといってもよい。しかし、それは物理世界での話はなく、私たちの内的世界とか、私たちの意識の中においての話であるということである。先述のとおり、人間は物理的な実在を正確に認識できない代わりに、入力された情報の順序を入れ替えたり因果関係を捏造したりしながら、無意識的に、流れがあるかのように内容を再構成するのだと吉田は指摘するのである。


つまり吉田によれば、私たちは、さまざまな体験が時間の流れに沿って順に生起すると感じるが、そうした時間感覚自体は、脳が捏造したものである。それは人間が進化の過程で石器時代までに獲得した認識の方法なのだから仕方がない。石器時代には現在のような高度な科学的理解は生存するためにまったく必要がなかったのだから。よって、結論としては、時間は私の心の中で流れるのである。よって、私はいったいどのように存在しているのかと問われれば、私自身が時間の流れを作り出し、その時間の流れの中で存在しているのだといえるだろう。