大乗仏教は釈迦の仏教とどう違うのか

日本人にとっての仏教は、基本的に大乗仏教である。そして大乗仏教は、釈迦が開いた本来の仏教とはかなり性質が異なる新しい仏教だと言われている。仏教がインドから中国に伝わった際に、釈迦が開いたオリジナルな仏教と大乗仏教が一緒に流入したのだが、そこで神秘性が高く一般の人に人気のあった大乗仏教が主流となったそうである。佐々木・大栗(2016)では、仏教学者の佐々木が、大栗からの質問に答えつつ、大乗仏教が釈迦の仏教とどう異なっているのかについて解説している。大乗仏教と釈迦の仏教との違いを理解するためには、まず、釈迦が開いた仏教がどのようなものかを理解する必要がある。佐々木によれば、釈迦は、「輪廻」という当時の世界観を受け入れた上で、全てが原因と結果でつながる「縁起」という法則に基づき、縁起でつながった全要素が一瞬も止まることなく変容し続ける「諸行無常」を説く。それに加え、世界の中心に自分が存在すると考えるのは錯覚とする「諸法無我」、生きること自体が苦であるとする「一切皆苦」を基本原理とする。

 

佐々木によれば、輪廻は、無限に続く時間の中で生き物が天・畜生・餓鬼・地獄・阿修羅といった領域で永遠に生まれ変わり死に変わりを繰り返す世界観だが、釈迦は、輪廻が永遠に続くならば、それは老・病・死の繰り返しであるため、全体としては「苦」だと考えた。そして、世界を正しく理解することで「苦」を消すことが仏教の目的だとした。その方法として、苦・集・滅・道という「四諦」という考えがあるが、簡単にいうと、「この世は苦しいけれど、その原因を消す方法は間違いなくあるのだから、それを信じて正しい道を進んで行きましょう」ということである。このような釈迦の教えを弟子たちが体系したのが「アビダルマ」である。アビダルマには神秘性はなく、この世の構成要素が縁起(因果律)の外にある「無為法」と縁起に基づく「有為法」があり、有為の世界で煩悩が生まれると説く。仏教の修行の目的は、この煩悩を消すことである。修行によって自分の煩悩を断ち切り、自己改造することで苦しみを消す、自分という世界の中で完結する個人の宗教であった。すなわち、釈迦の仏教の目的は、自分自身の苦しみを消すことだったのである。

 

実は大乗仏教は、アビダルマを否定する形で生まれたのだと佐々木は説明する。釈迦の仏教では、修行の道を進んで自己を鍛えるために、出家してサンガという宗教集団で修練の道を送る必要がある。しかし、インドの戦乱期にはそのようなことが困難となり、「サンガで修行せず自力で悟ることはできないのか」という疑問が生じた。自力で悟ったそのモデルは唯一、釈迦のみであった。ならば、釈迦が歩んだ道を追体験することで、誰もが悟る(仏陀になる)ことができるはずである。そして釈迦が歩んだ道とは、無限の過去から何度も生まれ変わる過程のどこかの大昔に別の仏陀に会って、「ああ私もこんな人になりたい」と思い、仏陀はそれを励ましたという。それ以降、釈迦は、どんな動物に生まれ変わっても修行をした。人間ではなくウサギやサルになった時でも、身を犠牲にして他者を救うことが修行だったというのである。そして最終的に、悟りを開いて仏陀になったのだというわけだ。こう考えると、出家しなくても日常生活を送りながら仏陀への道を進むことが可能だということになる。

 

しかし、上記の論理では、人々はどこかで仏陀に会わなければならない。そこでインドの人々は新たな世界観を作り出したと佐々木はいう。無限の命をもち、無限の影響力を持つ仏陀が存在するという設定にしたのだ。この仏陀は、無限の寿命があるので、無量寿と呼ばれた。無量寿は、ものすごい修行をしたので、無限の命と無限の影響力を見につけることができたとされる。ゆえに、この仏陀は釈迦よりもはるかに優れているわけである。釈迦は80歳で亡くなり、同時代の人々しか救えなかったのに対し、この仏陀はあらゆる世界の生き物を永遠に救い続けることができる。この無量寿のことをインド語で「アミタ・アーユス」と呼ぶが、無量が「アミタ」であり、これが、中国や日本では「阿弥陀」となる。大乗仏教では、阿弥陀様に会って誓いを立てれば、あとはまわりの者を助けるという修行をひたすら続けることで自分も仏陀となって涅槃に入ることができる。であるから、私たちがなすべきことは、阿弥陀という仏陀に「どうぞあなたの世界に連れていってください」というお願いをすること。これは「阿弥陀仏様、よろしくお願いします」である。「よろしく」はインド語で「ナマス」であるから、「ナマス・アミタ仏様」なり、音韻変化によって「ナモゥアミダ仏」すなわち「南無阿弥陀仏」となったのだと佐々木は解説する。これさえ唱えていれば阿弥陀仏がよろしく導いてくれるというわけなのである。

 

であるから、大乗仏教では修行は不要だと佐々木は説く。阿弥陀が全ての力を持っているので、阿弥陀を信じているならば、何もしないことが正しい態度だということになるのである。もちろん、本来であれば阿弥陀の前で誓いを立てた後に他者を助ける行動を続けなければならないのだが、時代を経るにつれてお経の内容も変わっていき、阿弥陀に「よろしく」とお願いして阿弥陀の世界に行けばそれで目的達成となってしまったと佐々木は論じる。仏陀の仏教では、煩悩を消して輪廻を止め「涅槃」に入ることが目的であったものが、いつの間にか、快適な暮らしが約束された「極楽」に行くことをゴールとするようになってしまった。本来ならば、その快適な極楽という世界をスタート地点として、仏陀となり涅槃に入るための修行を積まねばならないのだが、その部分は次第に脇に置かれ、極楽の快適さの方が強調されるようになったのが、いわゆる「他力本願」を中心とする大乗仏教だというわけである。

 

大乗仏教では、アビダルマを全否定すると佐々木はいう。釈迦が教えてくれた法則性、すなわちアビダルマよりももっと奥にある深い法則性を理解すれば、仏陀になって皆を助けた後、涅槃に入ると主張する。ただ、この奥深い法則性というのは人間の言葉では説明できない。このような言葉にできない究極の法則を、大乗仏教では「空」と呼んだというのである。段々と神秘性が増してきたわけだが、この「空」の重要性を強調しようとすると、釈迦を低く見ざるを得ない。般若心境でいうところの「空」は釈迦の教えよりも上位にあるのである。以上をまとめると、大乗仏教と釈迦の仏教では、世界観を構築する際の立脚点が根本的に違うのだと佐々木は解説する。釈迦の仏教は、世界を支配する法則を発見することで自分を救うものなのに対し、大乗仏教は、自分が救われるために適切な世界を自己構築するものになったのだと言うのである。

文献

佐々木閑・大栗博司 2016「真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話」(幻冬舎新書)