アジアはいかにして現在のアジアになったのか

岩崎(2019)は、世界人口の約6割を抱え、広大な面積を占めるアジアについて、東アジア、東南アジア、南アジアのサブ地域に区分し、2300年ほどのアジア史を各国史ではなく一体のものと捉え、アジアの内部勢力(自律)と外部勢力(他律)の相克と共同、その結果としての変容として捉える歴史観を披露している。ここでいう外部勢力とは主にヨーロッパとアメリカである。岩崎によれば、アジアの3つのサブ地域は、中国とインドという強大な国家を中心に据えつつ、これまでの歴史過程で相互に影響を与え合いながらも、同時に、自律した地域として独自の歴史を展開してきた。


アジアの原型を形づくったアジア史の出発点では、アジアの3つのサブ地域に諸々の土着国家が登場し、自律を追究する傍ら、アジアの内部勢力と外部勢力による交流が始まったと岩崎はいう。アジアの原型の特徴は、稲作を中心にした農業基盤型、内陸型の土着国家の優位性、1つの民族からなる単一民族社会、東アジアは儒教仏教徒道教、東南アジアはヒンドゥー教と仏教、南アジアはヒンドゥー教が中心というものであった。


岩崎によれば、古代から中世にかけてのアジアは3つのサブ地域の力が外部勢力に勝り自律的活動を展開していたが、モンゴル帝国の出現を契機にしていくつかの国が運命共同体的に他律の道を歩み、近代ヨーロッパ勢力が到来すると、ほぼすべての国が他律的な歴史の道を航海することなった(唯一の例外は近代化を成し遂げた日本)。大まかな流れとしては、各地の土着国家の盛衰と13世紀のモンゴル帝国の誕生、欧米による植民地化、日本の占領統治の影響、第二次世界大戦後の独立と経済発展、アジア共同体の模索ということになる。


13世紀にモンゴル人がアジアを攻撃・征服して1つの政治・経済圏を創った後、交通手段の発達とともに、外部勢力は西から(ヨーロッパから)、東から(アメリカから)、世界で一番人口が多く資源も豊富なアジアに到来した。ヨーロッパとアメリカはそれぞれの時代に世界を変革した原動力であった。ヨーロッパ勢力は経済資源の獲得とキリスト教の普及を目的としてアジアに到来し、結果的にアジアに資本主義をもたらす契機を作った。アメリカはイデオロギーの普及(自由主義国を増やすこと)を目的としてアジアに影響力を行使し、アジアにアメリカ型社会文化をもたらすことにつながった。


つまり、モンゴル帝国の登場と支配によってモンゴル帝国後の後継土着国家の成立につながり、ヨーロッパ勢力が到来してアジアに植民地国家を創って統治・支配するようになると土着国家は実質的に終焉して、アジアが全面的に変容した。そして、第二次世界大戦後は主にアメリカの外部勢力が大きな影響を与えたが、他方ではアジアは自律を回復して、2000年代になると、アジアのことを自ら決める「アジア共同体」を模索するようになったのである。このような歴史の流れの中で、軍事的に一時的ながらアジアを支配して強い影響を与えたのがモンゴルと近代日本だったと岩崎はいう。モンゴル帝国は、アジアの土着国家体制を破壊してヨーロッパ勢力の植民地体制を生み出す契機となり、近代日本のアジア軍事進出はヨーロッパ勢力の植民地体制を一時的に停止して現代国家体制が誕生する契機となったのである。


このように、アジア史は、内部勢力と外部勢力がぶつかり合い(外部勢力のアジアへの侵入や到来)、内部勢力の政治自立や民族文化を維持するベクトル(自律)と、外部勢力の支配と変容を促すベクトル(他律)の相互作用(相克と共同)で動いてきたが、2つが衝突したとき、ほとんど外部勢力の力(とりわけヨーロッパの勢力)が勝ったので、他律がアジアの変容の原動力となった。ただし、必ずしも常に外部勢力に支配され規定される受け身の立場にあったわけではなく、外部勢力に対して自律の主張、あるいは、自国文化と外来文化との折衷が行われた。内部勢力もアジアに影響を与え変容を促した。例えば、インドで誕生した宗教(仏教とヒンドゥー教)が東南アジアや東アジアに伝播したこと、東南アジアの土着国家がインド文化の強い影響を受けたこと、中国が周辺国を冊封体制の下に置いたことなどである。


以上見てきたように、モンゴル帝国の出現やヨーロッパとアメリカという2つの外部勢力の影響を受けてアジアは大変容を遂げたが、アジアの原型から見ると、政治は世襲支配者が支配する土着国家から、外国人が支配する植民地国家を経て、普通の人々が統治する現代国家に、経済は、土着国家時代の稲作農業、植民地時代の一次産品産業を経て、独立国家時代の工業国への転換、社会は、単一民族型社会から多民族社会への転換が行われたのだと岩崎はまとめている。