時間と空間の現象学的理解

世界の根源的な存在とは何かと問われれば、まず思い浮かぶのが、時間と空間である。時間と空間が存在しているということは、世界が世界であることのもっとも基本的な要素であり、時間と空間なくしては世界はありえないし、時間と空間は人間が存在するしないにかかわらず存在しているものだと直感的には思える。ただし、この時間と空間の「正体」は何かといえば、答えはそう簡単ではない。19世紀までは、時間は過去・現在・未来へと直線的に進む絶対的なもので、空間はユークリッド幾何学で扱う、こちらも絶対不変の空間概念だと人々は信じていただろう。しかし、その後の相対性理論量子力学の発展は、観測から得られるデータと数学的操作を用いて、時間と空間の根源が私たちが直感的にイメージするものと全くことなるものでありうるという示唆を導いている。そうでなければ宇宙が開始したビッグバンなどもあり得ない。

 

しかし、よく考えてみると、なぜ時間と空間が世界の根源的な存在だと言えるのかは定かでない。そもそも、私たちが信じているように、時間とか空間は普遍的な存在だということをどうやって確かめることができるのか。現代科学が観測と数学で解き明かそうとする時間や空間の正体には、人間以外の「神の目」から時間や空間を眺めていることが「暗黙の前提」となっている。つまり、人間が存在如何に関わらず変わらない正体もしくは真実を探ろうとしているのである。しかし、そのような神の目がそもそもあるのかどうか、正しいのかどうか誰も分からない。では、どのようにして、この世界の根源的な存在、とりわけ時間や空間の存在のあり方を理解すればよいのか。そこで1つの哲学的視点として利用可能なのが、フッサールが提唱した「現象学」である。谷(2022)による現象学の解説をガイドラインとしつつ、アプリオリとアポステオリという概念を、現象学がどう考えるかを見ながら考えてみよう。

 

カント以前の哲学では、(主観的な)認識は、(客観的な)対象に従うと考えられていた。それに対し、カントの「コペルニクス的転回」では、(客観的な)対象のほうが、(主観的な)認識に従うとみなした。つまり、(客観的な)対象の認識を可能にする条件は、じつは(主観的な)認識装置に含まれている条件とみなす。「対象を認識する」という意味での認識のほかに、「対象を認識する(主観的な)認識装置そのものを認識する」という意味での認識を、カントは「超越論的」と呼び、その超越論的哲学で、主観性にアプリオリに備わった認識装置を探ることで認識を可能にするアプリオリな諸条件を求め、結果として、「感性(直観)の形式」「悟性のカテゴリー」「超越論的統覚の自我」を見出した。

 

アプリオリが、いつでもどこでも妥当する普遍性を意味している一方、アポステオリとは、ある時やある場所でのみ妥当することを意味する。よって、普遍的なアプリオリがその都度的なアポステオリを基礎付けることはできても、普遍的でないアポステオリが普遍的なアプリオリを基礎付けることはできない。しかし、そうなると、私たち人間がどうやってアプリオリなものを認識することができるのだろうか?何かを認識するには、アポステオリな経験に依存せざるを得ないのではないだろうか。例えば、先に疑問に挙げたように、私たちは時間と空間を人間の存在如何に関わらず存在する根源的なもの、すなわちアプリオリな存在だと考えているが、そのことを証明する手立てがないのではないだろうか。そうなると、アプリオリだと思われるものであっても、アポステオリな経験からしか認識できないのではないだろうか。

 

それに対してフッサールは、経験がすべてアポステオリなのではなく、アプリオリも経験から抽出されると考えた。であるから、アプリオリだと考えられる時間や空間の正体も、現象学的還元によって人間の経験から得られるはずだと考えたのである。とりわけ晩年のフッサールは、人間による直接経験=志向的経験のうち、受動的な志向性にすら先立つことで世界の「存在」を与える次元である「原受動性」において、時間と空間の原構造があらかじめ生じていることを発見したと谷はいう。時間や空間は、私たちが実際に生活している精神世界において経験される。それはその都度的であって普遍性はないように思われるかもしれない。しかし、その経験の中に、時間や空間の原構造、すなわち根源的な本質が含まれているのであり、それを抽出することで、その派生形としての時間や空間の(客観的な)概念を自然科学などで利用することになる。よって、人間を離れた物理的世界において時間や空間が基礎づけられ、それに基づいて私たちが経験する時間や空間があるのではなく、人間の精神世界から抽出される時間や空間が、自然科学での時間や空間を基礎づけているといえる。

 

では、そのような時間と空間の本質を示す原構造とは何だろうか。まず時間であるが、超越的還元を遂行すると、「現在」の直接経験=志向的体験しか見出されず、過去や未来が与えられていないことが分かる。よって、私たちは、直接経験の現在から出発して、過去や未来をもった時間(客観的時間)を能動的に構成していく。しかも、原受動性としての時間は、一瞬で流れ去ってしまう(消え去ってしまう)ものではなく、それ自身が幅を持って立ちとどまってくれるという。現在という現出のうち流れ去る予定のものが保持され(把持的現出)、次に現れるものが期待される(予持的現出)、この2つは現在に含まれている。これは、現在には、原印象的現出、把持的現出、予持的現出の3つが属し、それゆえ「幅」が生じていることを意味しており、原初の時間は、受動的志向性にすら先立って、幅を持ちつつ生じている。フッサールはこれを「生き生きとした現在」の原構造だとするのである。あるいは「流れつつ立ち止まる現在」である。

 

現在という時間では、新たな現出が登場するたびに、それ以前の現出は、原印象からより遠い把持の方向に向かって押しやられていく。そして、現在の幅をはみ出してしまう。この時私たちは、はみ出したものを「想起」することができ、想起によって初めて「過去」が形成される。想起という活動が、想起しようとする能動性を必要とするのに対して、把持や予持は、そうしようとする意志がなくても生じるので、現在の幅は受動的に構成されると言える。一方、過去や時間全体は、能動的に構成される。私たちは、現在からはみ出してしまったものを能動的に想起することを繰り返すことで、一本の直線としての「時間」が、「過去」の方向に伸びていくし、同じようなプロセスを逆方向に行えば、時間が「未来」の方向にも伸びていく。その結果、過去から現在を経由して未来へと流れていく客観的時間が構成されるというわけである。もちろん、想起には限界があるので、例えば、想起不可能なほどの遠い過去は、想起可能な過去からの一種の理念化を遂行することによって自然科学的な意味での時間が構築される。

 

空間についても、客観的空間は、直接経験=志向的体験における空間から派生的に構成されると谷はいう。直接経験=志向的体験のもとでは、時間が点的でないのと同じで、空間も一定の広がりをもっている。それは、私が動くという運動感覚と共に現出するものである。運動感覚と共に生じる直接経験=志向的体験の光景はダイナミックである。このように、時間に対してとった現象学的方法と同じく、客観的空間の「起源」を、直接経験によって求めることでフッサールが見出したのは、根源的な意味での「大地」である。直接経験においてまず与えられる大地は、動かない。別の言い方をすれば、「動く」ということが言えるための条件として、動かない大地がある。何かが動く際の空間位置は、そもそも空間が与えられていなければならないが、その空間が「大地」として直接経験で与えられているというわけである。動かない大地があるからこそ、何かが動くとか静止することが可能になる。

 

ただ、時間と共に身体が動くことで経験される空間も動き、広がると言ったように、時間意識が空間意識の拡大の前提条件となっており、この前提条件に基づいて空間は拡大する。直観的な空間の拡大には限界があるが、理念化によって自然科学的な意味での客観的空間が構築される。しかし、ひとたび動くもの、静止するものとしての対象が注視されると、その対象が主題となり、逆に、根源的な意味での大地のほうは隠蔽されてしまうと谷はいう。時間も然りである。時間の現構造としての「生き生きとした現在」は、対象の主題化とともに覆い隠される。フッサールは、受動的志向性に先立つ先志向的な次元(原受動性)において時間と空間の原構造が生じていることを発見したが、こうした原初の世界の「存在」を、先存在と呼んだ。先存在は、存在すべてに端的に先立っている最も根源的な存在だとフッサールはいうのである。

文献

谷徹2002「これが現象学だ」(講談社現代新書)