カントはなぜ(純粋)理性を批判するのか

西(2020)は、カントの『純粋理性批判』を、哲学史上最も難解な著作のひとつであるが古今数多の哲学書の中でも五指に入る重要な著作だと指摘しつつも、そのエッセンスを分かりやすく説明しようと努めている。西によれば、カントの『純粋理性批判』は、人間がそなえる「理性」の能力とその限界を明らかにし、近代哲学が直面していた難問に体系的な答えを示した点で、哲学の根本を揺るがすほどの決定的なインパクトを与えたものである。カントのいう理性は、広義には感覚を含む人間の認識能力一般であり、狭義では物事を推理する能力を指す。「純粋理性」の「純粋」とは、経験から得た知識を含んでいないという意味である。では、カントはこの著者で理性の何を批判し、何を明らかにしたのだろうか。

 

カントの純粋理性批判での課題は、1)自然科学の知はなぜ客観的に共有することができるのか、2)なぜ人間の理性は究極真理を求めて底なし沼にはまってしまうのか(不死なる魂や神の存在など答えが出ない領域の議論)、3)よく生きるとはどういうことか、であった。これらの課題とその答えを理解するには、まずカントが提示した認識論すなわち「人間はどのように事物を認識するのか」を理解する必要がある。カントは、人間の認識の基本構造を明確にすることによって、きちんとした根拠によって共有しうる知の範囲はどこまでで、そこからはそれを逸脱するので共有できる答えが出ないことを示そうとしたのである。つまり、どのような知識であれば合理性をもって共有しうるのか、いかなる仕組みで共有が可能になるのかに答えようとしたわけである。

 

西によれば、カントは、対象の真の姿である「物自体」は認識できないと考え、人間が認識しているのは、それぞれの主観(心)に映った像であると主張した。よって、主観が主観の外に出て客観世界そのもの(物自体)と一致することは不可能である。しかしカントは、どの主観も一定の共通規格をもっている(共通のメガネをかけている)から、世界について皆が共有しうる認識は成り立つと論じた。その共通規格(メガネ)は、感性+悟性の二重構造になっている。人間が有する感性は、空間と時間という枠組みをアプリオリ(生得的)に備えており、感覚器官を通じて物自体から受け取った多様な感覚を、空間・時間という枠組みによって位置づけて「直観」をつくる。そして悟性は、直感された漠然としたイメージを、経験概念や純粋(アプリオリな)概念を用いて整理することによって明確な判断を作り出す。

 

生得的に人間に備わっている感性や悟性によって生み出される「アプリオリな総合判断」は、どんな人にも共通な「認識の際に働く原則」に基づくから、それが数学や自然科学の土台になっているとカントは論じるのである。そこには、数の概念や因果律が含まれる。このように、空間と時間という枠組みのなかで与えられる直観と概念が結びついた認識は、客観的な認識といえるわけだが、カントは、直観できる世界を離れ、どんどん暴走していく思考のエンジンとして「理性」の働きをとらえた。感性が空間・時間を伴う「直観」をもたらし、悟性が「判断」を作り出すのに対し、カントがいう理性は「推論」という働きを持っている。理性による推論は直観に縛られないので、暴走して、答えの出ない「究極真理の探究」に向かってしまうとカントはいうのである。

 

カントによれば「宇宙は無限か、有限か」「魂は不死か」「神は存在するのか」といった問いは、人間が持つ共通規格によって認識できる現象界を超えてしまっているので、どんなに考えても答えが出ない。しかし理性は、推論に推論を重ねるあげく、現象界から逸脱してしまい、答えの出ないことを求めて暴走してしまうというのである。なぜか。それは、まず、理性が「完全性」を求めるからである。理性による推論は、世界全体を完結した完全なものとしてつかもうとする。世界全体がつかめると、そこに「自分」や「現在」を位置付けることができて安心できるからである。また、理性は、限りなく問い続けることで真理に近づこうとする探求心を有している。つまり、理性は「全体を知って安心したい」「もっともっと問い続けたい」という性質を持っており、「究極的な完全なもの」として「理念」を作ろうとするというのである。

 

西の解説によれば、カントは、理念は「探求の目標」として人間に課されたものだと述べ、究極の真理にたどり着くことは永遠にないけれど、人間はそこを目指して可能な限り探求しなくてはならないと説く。そして、その働きがもっとも有効なものとして発揮されるのが、実は認識や理論の領域ではなく、行為(道徳)の領域だとカントはいうのである。すなわち、「完全なもの=理念」を思い描く理性は、認識の面では実現しないが、人が実践(行為)するとき、理性は「完全な道徳的世界」という「実践的理念」にもとづいて、それをそのまま実現するよう「~すべし」と命令してくるのだという。カントは、道徳的に生きることを最高の生き方とするのみならず、道徳的に生きることに人間の自由があるといっていると西は解説する。その理由は、人間の欲望や感情といった傾向性に受動的な感性に対して、それを正しい行為かどうかを判断し、コントロールしようとするのが(実践)理性だからである。

文献

西研 2020「カント『純粋理性批判』 2020年6月 (NHK100分de名著) NHK出版」