カント超越論的哲学によるコペルニクス的転回

カントによる超越論的哲学は、コペルニクス的転回を行ったとされるが、それはどういうことだろうか。貫(2004)によれば、カントの超越論的哲学は、諸物や宇宙の存在を前提とした上でどうやって認識するかをさぐるのではなく、およそ諸物や宇宙などの存在者が存在者として成立するための条件をさぐる哲学である。また、カントは、大陸合理論とイギリス経験論の対立を調停したといわれると貫は解説する。


大陸合理論は、因果性や実体、神などの概念を徹底して追求することによって、宇宙全体や「神」に対する人間の位置を把握しようとする。しかし、カントはこのような姿勢は自己矛盾に陥るとする。例えば、宇宙が無限であるとすると、宇宙の始まりが説明されず、始まりがないとなれば宇宙の存在が否定される。それを回避するために宇宙の始まりを仮定すると、宇宙は無限であるという前提に反する。宇宙が有限であるとすると、宇宙の始まり以前になにかがあったことになり、それも宇宙とせざるをえないが、それを繰り返せば終着点のない無限後退に陥る。


イギリス経験論は、すべては経験に基づき、経験に基づかない主張は知識とはいえないとする。実験や観察を重視する点では健全な考え方であるが、それらを徹底すれば因果性や因果法則の客観性を否定する懐疑論に陥るとする。例えば、テレビモニターを観察したとすると、前面にある平面や背面にある端子など、目に映るバラバラなものすなわち感覚的所与だけでは「ひとつのテレビモニター」として知覚することはできない。感覚とは異なる能力として経験に先だって(ア・プリオリに)所有している「ひとつの」というカテゴリーがなければ、テレビモニターを見るという経験は成立しないとカントはいうのである。


上記のように、カントによれば、大陸合理論もイギリス経験論も、それだけでは片手落ちである。むしろ、ア・プリオリなカテゴリーに基づく経験によってはじめて諸物は経験可能であり、しかも、それによってはじめて諸物はそこにあるといえるのだから、諸物、あるいはひろく自然一般は、経験によってはじめて可能ということになる。つまり、自然があってそれを経験するのではなく、われわれの経験によって自然のあり方が決まる。あるいは、経験に先立って備わった(ア・プリオリな)カテゴリーによって、経験対象の存在と主体の成立を解明するのである。