認識論としての正規分布

確率論的視点というのがある。これは、世の中の物事に絶対はなく、すべての出来事は確率的に生起するのであり、多くの場合それは正規分布に従うといったような視点である。量子力学では決定論と決別し、素粒子の存在を確率論的に扱っている。そして、アインシュタインは「神はサイコロは振らない」としてこのような確率論的視点に反対したのも周知の事実である。これに対し、船木(2018)は、確率とは、出来事に関わる法則ではなく、「ひとが出来事を理解する形式」だと主張する。出来事が確率論的なのは、蓋然性(ありそうなこと)が宇宙の秩序だからではない。人間精神が宇宙を認識して、確率をその論理として見出すわけではないというのである。アインシュタインの言うことのほうが本当だというのである。いったいどういうことだろうか。


この考え方は、確率論や正規分布自然法則などでは決してなく、人間が宇宙を認識するための形式であるという考え方である。船木の言い方を用いれば、幾何学の点や線と同様に、あるいは論理学の矛盾律同一律と同様に、経験において証明はできないが、公理として与えられる原因と結果の蓋然性についての思考の規則だという考え方である。つまり、認識論として確率や正規分布を捉えるということである。そもそも、宇宙を認識するといっても、人間も宇宙の一部である。宇宙を認識する人間精神自体も宇宙に生起しているのだから、このことが宇宙を認識する際の「認識限界」になることを船木は指摘する。宇宙の一部である私たちが、私を含む宇宙全体を「外側から」認識することなどできるのだろうか。「外側から」というのは、いわゆる「客観的に」という言葉に置き換えてもよい。建前上、自然科学や物理学などは、客観的(外側から)に宇宙を認識しようとしてきたわけだが、よく考えてみれば、客観的に宇宙を理解しようとするところに、人間の認識限界があることが分かるだろう。


であるから、例えば次のようなことが考えられる。私は、できるだけ客観的に(外側から)宇宙を認識しようとするが、他の人が、できるだけ客観的に(外側から)宇宙を認識しようとするとき、果たして、他の人は私と同じように宇宙を認識しているのだろうか。つまり、私が客観的に認識している宇宙は、他の人が客観的に認識している宇宙と同じであろうか。簡単に言えば、私が経験している世界(例えば、色)は、他人にも同じように映っているのだろうか。私に見えている「青」は、他人に見えている「青」とまったく同じ色なのか。これは永遠に分からない謎であり、人間の認識限界である。このように考えていくと、そもそも、事実とは何なのかが分からなくなってくるだろう。事実はただ1つだと考えたい。しかし、もしかしたら、事実は十人十色なのかもしれないと。


客観的な宇宙が唯一だとするならば、そこで起こる「事実」はただ1つだと考えたい。しかし、もしかしたら、「事実は十人十色なのかもしれない」。これが決定的に重要である。ここに、自然法則としてではなく、人間が認識限界を克服しつつ宇宙や事実を認識する形式としての確率論や正規分布が登場するのである。船木によれば、一般的に、個々の出来事については、ひとは想像も含めて恣意的な推理をするものだが、それは単なる「信念」である。しかし、その信念の強さが一定の水準を超えると、それは「確信」になり、「事実である」と述べるようになる。信念がいつの間にか事実になってしまうのだが、それを錯覚と呼ぶ必要はなく、確率論的規則として正しいのであり、正規分布はその規則を表現しているのだと船木は言うのである。


つまりこういうことである。「事実は十人十色なのかもしれない」という時点では、十人十色なのは事実ではなく「信念」である。他人にはどう見えているかわからないが、自分にはこう見えている、という世界であり、宇宙である。他人はともかく自分が認識する宇宙である。しかし、その「十人十色の信念」は、確率論的に正規分布に従うと考えるわけである。その正規分布において、その中心(平均)に近ければ近いほど、それは事実に近く、そこから外れれば、すなわち事実からの誤差が大きければ、それは信念にすぎないということになる。正規分布上、もっとも多くの人(平均的な人)に見えている出来事(世界、宇宙)が、事実としての出来事(世界、宇宙)だと考えるのである。例えば、現在において「地球が丸い」というのは事実かどうかといえば、地球が丸いと答える人が正規分布上最も多いと考えられるので、事実と判定できる。しかし、古代では、地球は平らであることが「事実」であったことは容易に推察できるだろう。


また、船木は、「経験が反復するに従って信念が事実になる」という「信念」そのものについても、経験が反復して確率論的規則(ルール)という「事実」になったものだからだという。これは「確率の確率」だという。つまり、さまざまな現象において、どこまで調べればその確率を確定できるかということについても確率があるのであり、一定頻度で起こることを、これはもう事実だとして対応することにして、それで何も問題ないという水準があるが、そうした判断の確かさの水準を与えてくれる確率があるというわけである。船木によれば、ヒュームのいう「事実」とは、どんな判断にも「まだ分からないことがある」ということが伴うことを知っており、そのことを目下の判断に適用するときに、無限に「まだ分からない」を反復したあとに収束する無限級数の和のようなものとして、目下の判断として「分かった」となったものなのである。