自然科学で人間を理解することは可能なのか

自然科学は、人類のこれまでの発展に大きく寄与してきた。自然科学は、自然すなわち物質世界を扱う学問で、人間の営みを対象とする人文科学や社会科学と区別される。であるから、直感的に、自然科学で人間を理解することは可能かと聞かれれば、ノーと答えたくなるだろう。しかし、自然科学はこれまで、天動説を地動説に修正したり、絶対空間・絶対時間の存在を否定したりと、人間の直感を正すことで真実に近づこうとしてきたのだから、もしかしたら将来、科学が「物質世界と人間の心や営みは本質的に違う」という私たちの「直感」を正すのかもしれない。そうなれば、自然科学によって人間の心や人間の営みも理解することが可能である、という見解につながるのかもしれない。


酒井(2016)は、自らが物理学を専攻した後に言語学という分野に軸足を移した経験から、「言語は、人間の脳の生物学的な特性という「自然法則」に従って生み出される。人間の思考にある言語が自然法則に従うなら、人間の認識もまた、その根本は自然法則に従うと考えてもよいのではないだろうか」と述べる。人間の認識も自然法則にしたがうのであるならば、その認識に沿って行われる人間の活動、そして人間の活動によって生み出される社会現象も、自然法則に従うと考えることもできなくはないだろう。実際、酒井は、たとえ科学によって宇宙や物質の研究をするにしても、究極には人間という存在を認識し理解することにつながるだろうという。では、そのような可能性のもった科学とはいったどのような考え方に基づいてなされる学問なのであろうか。


まず、自然科学の目標は、自然現象の奥底にある原理や法則を明らかにすることだと酒井はいう。つまり、現象の記述だけに終始するような「現象論」から訣別して、その現象の目に見えないメカニズムを見えるようにすることである。そして、科学とは自然の不思議な現象を説明するために身を擲って努力し続けるということに尽きるのであり、科学のどんな法則や考え方も、かつて誰かが、人間の直感を正して発見したものだという。つまり、科学は人間の経験や直感に基づく知識を反映してはいるが、単にまだ吟味がよくされていない経験則をまとめれば法則になるわけではなく、むしろ人間の経験や直感を正していくことで進歩してきたのだという。


酒井によれば、自然科学が人間による営みである以上、その対象は、人間が認識する「世界」に限定される。つまり、科学が客観的な記述を目指すにしても、世界を内側から見る限りは、「われわれに、どう見えるか」という人間の認識に根差す「主観」からは決して逃れられない。そのような科学の基礎に「論理的な思考」があることは動かないと酒井は指摘する。論理的な思考にもっとも関連しているのが数学である。数学で培われる厳密な論理展開と論証法は、科学一般に必要な素養であって、論点が飛躍していたり、場合分けを見落としていたりすると、致命的な欠陥になるというわけである。物理学において、基本的な物理法則が極めて美しく、そして強力な数学理論によって記述されるのは、自然の基本的な性質の1つであろうとディラックが語ったそうだ。では、なぜ数学なのか、それは、数学が人間に生得的に備わった言語能力に支えられているからではないかと酒井はいう。つまり、人間の認識に根差した「世界」を理解するために、人間に生得的に備わった能力に支えられた「数学」を用いるわけである。


人間の脳の認識機能によって構成される世界を、人間の脳の別の機能である数学的思考によって理解するというのは、ある意味理にかなっているといえよう。「世界は数でできている(ピタゴラス)」とか「宇宙は数学という言語で書かれている(ガリレイ)」といった名言があるが、世界を認識することも、数学を用いることも、両方が人間の能力によるものだから、人間が認識する世界に数学的要素が含まれていてもなんら不思議ではない。別の言い方をすれば、人間は、数学を用いることによって理解が進むようなかたちで世界を認識しているのであり、それは人間の脳がそのようにできているからということができる。その脳は自然法則に従って機能しているわけだが。ただ、その世界認識の仕方が、数学に加えて科学的方法を用いることでより強力になるといえるのである。数学は言語の一部であるが、科学的方法が、言語の中でも数学の最も優れた部分を最大限に活用することで人間の世界認識の精度を格段に高めてきたといえるのだろう。


では、人間の世界認識の精度を格段に高めることができた科学的方法のエッセンスはなんだろうか。酒井によれば、科学という考え方の基本は、抽象化と理想化の両方をうまく実現して説明することである。抽象化すなわち抽象度の高い理論を練り上げるとは、余計なものを切り捨てることである。それができるのは「捨象力」という能力の賜である。余計で表面的な要素を捨てることで、本質的な部分が見えてくるようになるわけである。そして、理想化すなわち理想的状態を想定することとは、余計な物を当面は見ないようにすることである。理想化することで現実離れするというのではなく、理想化によって現象の本質を鋭く突くことで、より単純なモデルへと持ち込むのである。数学は、言語の中でも、このような抽象化と理想化を行うのに最も適した言語である。だからこそ、数学を用いて私たちに認識された真理は、単純であればあるほど奥が深く、新たな発見の萌芽となる可能性を秘めているといえるのではないだろうか。


科学で最も重要なのが原理と法則である。「原理」とは最も基礎的で普遍性のある命題で、「法則」とは、原理や、より基本的な法則から導かれる命題である。自然科学では、あらゆる原理や法則は実証や反証の対象となり、原理や法則に基づいて結果を予測することが科学の命である。実験的結果に基づく検証によってその妥当性が確かめられる原理や法則は、それ自体が自然に対する考え方や哲学という価値を持つと酒井はいう。法則の発見を通して宇宙の原理を探ろうとしたケプラーのように法則から原理を見つけ出そうとすることと、光速一定の原理を打ち出すことで法則性を導いたアインシュタインのように原理から法則を導くことの両方が、科学という考え方なのだと酒井は説くのである。