数理科学としての経済学

小島(2012)は、現在の経済学は、経済現象に対する予言能力は備え持っていないし、現実の説明能力も乏しいと言わざるをえないと明言する。経済学は、人々の(経済)活動を運動と捉え、その法則性を物理学と類似した形で解明しようと試みる。しかし経済学は、あたかも物理学のように「理論によって結果を予言できる」では全くないというのである。つまり、経済学は、現実解析の学問としては無力に近いというわけである。それでは、経済学はいったい何の役に立つというのだろうか。どんな価値があるのか。


そこで小島は、経済学は数理科学としてとても面白く、また大きな可能性を秘めたものだという見解を披露する。例えば、物質の運動ならまだしも、人間の行動を数学で法則化するということは、とんでもなく画期的なことなのだという。経済学はそれに部分的には成功している。これが「経済学の思考法」である。そもそも数学というのは人類が用いるもっとも簡単な言語であり、「数学の論理で示されたことは、前提が正しい限り必ず正しい(論理の健全性)」という見事な性質を備えていると指摘する。だから、前提のみを検証すればよいということになる。


例えば、経済学では、抽象的なだけに見える数学の道具が、人間の「欲望」「思惑」「恐れ」といった内面を描写するために活かされる。その1つが「選好理論」である。これは経済学の土台をなすもので、ニュートンの力学方程式にあたるという。この理論では、人間の内面にある欲望を数学的に可視化することに成功し、人間の経済行動を描写するシステムを生み出した。ある仮定を置けば選好は効用関数という関数で表すことができるのである。そもそも経済の本質は、お金でなくモノである。モノへの需要や供給を浮き彫りにするためには、人間の欲望や嗜好といった「目に見えない」何かを目に見えるようにしなければならない。これらを「数学化」することで、目に見えるかたちで浮き彫りになってくるわけである。


一方、経済学の非現実性や非力性については、物理学が「法則の正しさ」の検証に関して特有の方法論を完成させているのに対し、経済学はそうではないことに起因するとしている。例えば、物理学が「数学の論理による演繹」と「データによる検証」の方法を確立させているのに加え、力学、電磁気学、熱力学、統計力学などたくさんの方程式や原理が、単に個々に孤立した実験によって確かめられているばかりでなく緊密に連関しあっていることを指摘する。このような「網目構造」によって、個々の法則の堅牢性が強化されるわけである。それに対して経済活動は「歴史的事象」「一回性のできごと」であり「実験がままならない」。そして、物理学のような網目構造を持っていないのである。それがゆえに、物理学の法則たちが備えている頑強な真理性を持つには至っていないわけである。


このように、経済学が経済のあらゆる現象を体系的に説明することなど現状では不可能である。よって、ノイマンとモルゲンシュテルンの言葉を借りれば、「経済学に期待されるのは、経済生活の最も単純な事実の中に含まれている問題を取り上げ、ついで、これらの事実を説明でき、しかも厳密な科学的規準に真にかなうような理論を打ち立てること」であるという。その一例が「ゲーム理論」である。経済学では長らく、社会における協力やコミュニケーションというものを数理的な形式で描写することができず、「市場」という名の正体不明なブラックボックス・システムを仲立ちにして経済を描写してきただけだった。しかし、ゲーム理論の登場によって「社会の協力」や「集団と個人の相互作用」を数理的に表現する方法が開発されたのだというわけである。