算数の発想が世界の本質を直感的につかむことを可能にする

小島(2006)は、算数の発想にこそ、さまざまな科学の思考法の原点のようなものが根づいているという。それは、数学と算数を比較してみると顕著になる。算数では、「つるかめ算」「和差算」「旅人算」など、問題に応じて個別的に考えて説く。それに対し、数学では、方程式のような普遍的解法を用いて、異なる問題を決まった手続きで解こうとする。つまり、算数は「個別的」であり、数学は「普遍的」である。では、なぜ「個別的」な算数が科学の思考法の原点だといえるのか。これは、小島によれば、算数の発想が、科学的発見を可能にする「特有の視線」につながるからである。


科学における発見の背後には必ず「世界をどう見つめているか」という発見者の「特有の視線」があると小島は指摘する。科学者が新たな発見をするときに得られる「直感」「確信」のようなものは、世界に対する認識のあり方、信念の持ち方のごときものであると小島はいう。「自分には世界はこう見える」「世界はこうなっていてほしい」「世界はきっとこうなっているに違いない」という皮膚感覚のようなものだという。算数のアプローチはこのような感覚と関連している。なぜならば、これらの「第六感」のようなものは、日常をいろいろな角度から眺め、いろいろな経験をすることからやってくるからである。それは「個別的」であり「普遍的な操作性」とは異なる。


ある個別の問題に対して、それに特有のやり方で解決しようとする算数のアプローチは、実際に日常のなかで経験する身近な感覚である。それ自体はごくありきたりの経験則だが、これを素朴に発展させると、宇宙のなぞを解く物理法則にまで行き着いてしまうと小島はいうのである。例えば、旅人算では、両方が動いているが、「仮に自分が止まっているとすれば」「相手が自分に近づいてくるように見える」という感覚を利用する。これは「相対速度」という「ものの見方」であるわけだが、これを素朴に発展させると、ガリレイ慣性の法則や、アインシュタイン相対性理論につながるのである。


また、上記でも挙げたような「仮に・・・とすれば」という「算数のフィクション感覚」の利用も、真実の答えを導くのに重要であることを指摘する。これは「仮説」であり「作り話」にすぎない。科学者が「夢想家」だといわれるゆえんでもある。この「仮説」は、それが正しいものでなかったとしても、ときとして私たちに正解への道しるべを提供してくれるというのである。実際、小学校でならう算数も国語も、フィクションとかかわりがある。これは、フィクションが、人間が世界の成り立ちを理解する上で、もっとも重要な道具の1つだということを示しているという。


算数の発想は、日常生活や人生の経験のなかからやってくるさまざまなものの見方を集積したものであると小島はいう。日常に根ざした素朴な感覚を重視する算数には、方程式や記号をあやつる数学からは決して出てこない、世界の本質を直感的につかむためのアイデアがつまっている。ゆえに、算数の素朴なものの見方、プリミティブなアイデアを知ること、すなわち「算数的に世界を見つめること」は、日常を豊かにし、人生に潤いをもたらすだろうというのである。これは、数理的な記号を操作すること、もしくは「方程式的に世界を解くこと」とは異なるのである。