人間は、自分の周りの世界に適応するために思考や言語を発達させ、それらを生活の道具として用いてきた。それらの最も基本的な概念には、物、事、時間、空間、自然数などが含まれ、これらの基本概念を用いて世界を理解しようとしてきたのである。これらの概念は、世界を理解するためにつくられたものだから、当然、存在することが当たり前であるものとして扱われてきた。石ころのような「物」や、私たちがいまここにいる「空間」や「時間」はそもそも人類が出現する以前から存在しているのが当たり前のことで、それを前提に、世界を理解する理論を作り上げようとしてきたのだ。しかし、現代科学は、このような基本概念をも否定するようになった。「物」も「空間」もその存在自体が怪しい。そして、ロヴェッリ(2019)は、現代物理学の結論として「時間は存在しない」と喝破する。
なぜそんなことになってしまったのか。それは、近代科学を成功させてきた人間が、自分たちが認識できる世界の範囲では飽き足らず、この世界の根源的な理解を求めて、宇宙のような巨視的世界や量子のような微小世界といったように、直接認識することができない世界にまで研究の範囲を拡大していったからである。人間の力では直接認識できない世界を対象としているのに、認識できる世界を理解するために用いてきた人間の認知能力や言語でほんとうに理解が可能なのかという問いが当然ながら出てくる。しかし、それを乗り越えようとしているのが現代科学なのだ。つまりこれは、まだ知らない世界を理解するための冒険というよりも、人間が世界を理解するための認識能力への挑戦といったほうがよいかもしれない。身の回りの世界を理解するために作られた思考ツールで、それをとっくに超えた宇宙や微小世界を理解することがどこまでできるのか。人間が備えている認知能力と思考ツールのみで、この世界の根源を本当に理解することができるのか。
その挑戦にいち早く成功してきたのが数学で、自然数や分数のような日常生活にもなじみのある数的概念をとっくに超え、マイナスや虚数のような想像上でしか存在できない数や無限を扱う微分方程式といった解析学などの思考ツールを発達させてきた。ユークリッド幾何学を否定したリーマン幾何学が相対性理論に寄与したように、まずは数学において人間の認識能力の限界に挑戦するような前提の変更や拡張が起こり、それらの成果が自然科学に応用されることで、私たちの自然理解が格段に進展してきた。そうなってくると、宇宙や量子など人間が直接認識できない世界についても、数学の論理とかろうじて観測できる事実を用いて、世界を理解するための無矛盾な知識体系を構築できる。そのような過程ででてきた議論が、相対性理論でいうところの「絶対的な空間も時間も存在しない」というものであった。
さらに、量子力学の世界に入っていくと、そこでの結論は、空間や時間は存在するというよりは、作られるものであり、「物」さえも存在しないということになる。物が存在しないのなら何が存在するというのか、空間も時間も存在しないのであれば、何が宇宙を構成しているといえるのか。それに対して、ロヴェッリは、「根源的な世界は、出来事の相互作用で成り立っている」という。つまり、世界は「物(モノ)」ではなく「事(コト)」で成り立っている。空間も、時間も、物も、そこから立ち現れてくる。空間や時間や物が最初にあって出来事が生じるのではなく、その反対である。微小世界では、世界を理解するのに時間を方程式に含める必要がない。相互作用の非可換性が、順序や時間の芽となる。
ロヴェッリによる解説では、現代科学が発展した結果、私たちが常識的に持っている時間や空間の概念は完璧にまでに瓦解した。私たちが持っている通念、それは、「宇宙のあらゆる場所に今(現在)があって、過去は誰にとっても過ぎ去ったもの、未来は開かれていて定まっていないもの。現実は、過去から現在を経て未来に流れ、事柄は、過去から未来へと非対称にしか進展しない」このような世界の基本構造が瓦解してしまったのだ。
では、この世界とはどんな世界なのか。ロヴェッリによれば、現代科学で分かっていることは「宇宙全体に共通な「今」は存在せず、「今」は局所的に存在するのみである。世界の出来事を記述する基本方程式に過去と未来の違いはない。自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいてどのような速さで動いているのかで変わってくる。時間が流れるリズムは、重力場によって決まる。時間と空間はゼリー状に伸び縮みする。だがそれらは世界の基本原理にはなく、量子的な世界の近似にすぎない。世界の基本原理には、ある物理量からほかの物理量へと変わる確率的な過程があるだけである」。つまり、現在分かっているもっとも根本的なレベルでは、私たちが経験する時間に似たものはほぼ無いといえる。世界を記述する方程式では、時間も空間もなく、変数が互いに対して発展する。その変数とは物ではなく、出来事である。
ただ、このようなことを言われても、私たちの頭では、にわかには理解できない。それもそのはず。そもそも私たちの認識能力は、日常生活をスムーズに送るための素朴なイメージを描くための思考ツールしか備えておらず、この世界の根源を理解するために作られたものではないのだから。しかし、それでも知りたい、理解したいという人間の欲望や執着心が、生物学的な認識能力は石器時代とほとんど変わらないにもかかわらず、現代数学、現代科学といった思考ツールを限界ギリギリまで発展させ、限界にぶち当たればそれをさらに突破することを繰り返すことで、人類をここまで発展させたのだといえるだろう。