本質学とは何か

竹田(2002)は、近代哲学と諸科学が、近代以来の「認識問題」の本質を解明できなかったとし、現代の学問が陥っている事態を理解するために「事実学」と「本質学」という概念をおくとよいとするフッサールの考え方を紹介し、本質学とは何かについての解説を試みている。


「事実学」とは事実のありようを究明する方法で、仮説を立て、実験し、検証するというような自然科学の方法がこれにあたる。しかし、このような方法は、人間や社会の認識については役に立たないとする。その理由は、人間や社会は、自然とは違って、「客観的な事実」としては捉えられないからである。例えば、歴史を理解することの本質は、無数に起こった過去の出来事を手がかりに自分たちのあり方を解釈し了解することである。社会の理解も、社会の中の無数の出来事を手がかりに、それが自分たちにとってどのような関係と意味を持っているかを解釈し理解することである。要するに、心も、歴史も、社会も、事実の集積ではまったくないし、まして事実そのものの認識ではありえないというのである。


フッサールによれば、人間や社会は自然事物とは違う独自の「本質」をもっており、この本質を捉えないといけない。しかし、19世紀以降の人文科学、実証科学は、人間と社会の問題を「事実学」として捉えようとしたために失敗したというわけである。人間や社会についての知は「本質学」でなければならないというのである。


竹田は、本質とは何かを理解する助けとして、次のような西研の説明を紹介する。人間が恋をしたときに、その脳波がどうなっているか、どんな快楽物質が出ているかなどということは、事実学として捉えることができるだろう。しかし、「恋」という経験が人間にとってもつ独自の意味それ自体は、決して事実学では捉えられない。「恋という経験が人間にとってもつ独自の意味それ自体」が「恋の本質」であり、このような「ことがらの本質」を探究するのが「本質学」だというわけである。


竹田によれば、フッサール現象学において、ことがらの本質を問い訪ねる方法が「本質観取」である。これは、自分が経験しているさまざまなことがら、概念などの本質条件を、内省しつつ適切な言葉で言い当てることだという。世界の事実がどうであるかということは、「本質学」ではほとんど重要でない。われわれがどのような世界をもち、どのようにそれを他人と取り結び、どのような意味や価値を編み上げながら生きているのかという「原理」をつかむのが本質学の仕事だというのである。