現代経済学とは何か

瀧澤(2018)は、20世紀半ば以降、この半世紀の間に経済学は大きく発展し、経済学とは何かという問いに対して「経済現象と対象とし、それを解明する学問」と単純に回答するのに大きな戸惑いを感じるようになっているという。つまり、経済学の急速な変化と多様な進化が、経済学の全体像に対する見通しを難しくし、今日の経済学が何をしている学問なのかがわかりにくくなっていると指摘するのである。もともとアダム・スミスを源流とする経済学は、市場メカニズムの解明へと収斂していくこととなり、新古典派経済学を中心に自然科学なかんずく物理学を模した数学的発展を伴うことで、一定の条件下では市場メカニズムが社会的に最も望ましい資源配分を実現することを証明したと瀧澤はいう。このような従来型経済学の一般的な定義は、ロビンスによる「経済学は、さまざまな用途を持つ希少なさまざまな手段とさまざまな目的との関係として、人間行動を研究する学問である」というものだという。つまり、経済学は、希少性と最適化を基本とし、経済現象に数学的手法を応用する学問として確立されたかのように見えたのである。


例えば、ゲーム理論が経済学に浸透すると、上記の定義に収まらなくなってきた。ゲーム理論は、市場を経由した主体間の相互作用ではなく、プレーヤーの行動が直接的に他のプレイヤーに影響を与えあう「ゲーム的状況」の経済分析に経済学を拡張し、ルービンシュタインによる「経済理論は、人間の相互作用における規則性を説明しようとするものである」という形で経済学を捉えることにつながった。ゲーム理論によって、人間行動の観察された規則性を説明する際に「信念と行為の組み合わせ」という観点が導入され、異なる複数の均衡が存在しうることを理解できるようになった。マクロ経済学でも、信念の概念と類似した「期待」という概念が導入され、経済システム内部にいる人々が将来の予想を形成して行為を選択すると考えるようになった。さらに、行動経済学の登場により、それまで経済学では「公理」として前提されほとんど疑われることがなかった現実の人間行動の分析にまで経済学を拡張し、実験経済学では、実験という発想が多様な仕方で経済学を変えつつある。さらには、市場以外の制度の重要性に着目する制度派経済学や、人類が実際にたどってきた経路を事実の側面から見る経済史も経済理論に影響を与えている。


瀧澤は、経済学が、公理的体系として演繹的に構成された学問体系であり、客観的対象としての経済現象を記述し、分析し、説明する科学であるという考え方、あるいは経済学は法則定立的な科学であるという見方を維持するのは難しいと指摘する。その理由の1つに、社会科学一般においてみられる「遂行性(パフォーマティビティビティ)」がある。これは、人間の思考が現実世界のあり方に大きな影響を及ぼすことを示す概念である。経済学が対象とするのは物理学が対象とするシステムとは異なり、その振る舞いが人間の意思決定で決まるという特徴を持っている。すなわち、経済学や社会科学一般は、社会の中で構成しているカテゴリを扱うという点において、存在論的に主観的(哲学者サールによる分類)なものを扱っているので、われわれがその概念を一定の仕方で理解し、それに基づいて社会的実践を行い、それがさらにもとの概念の妥当性を強化するといったプロセスが作用している。経済学でも、それ独自の構成概念を作り上げることで、それが記述の対象としているわれわれの社会的実践に対して遂行的な影響を与えている。つまり、概念構成を通じて社会に対して作用しているので、物理学のように単にあるがままに存在している(存在的に客観的)現象に対峙しているわけではないのだ。


上記のような理由で、経済学においては、普遍的法則と呼ばれるものはほとんどなく、経済現象を客観的なものと捉えて法則定立的に研究するのは困難であるわけだが、それに対して瀧澤は、経済学の目的を「メカニズムの探求」として捉えようとする。メカニズムとは、あるシステムが一定の振る舞い(現象)を示しているとき、システムを構成する存在物あるいは部分が、それらの活動やインターアクションによって当該の現象を生み出すように組織化された状態を指すと瀧澤は説明する。原因と結果の法則を見つけて何かを予測したりするのではなく、そこで何が起こっているのかを知るということである。経済学では、いくつかの仮定を設けて数理的な理論モデルを構築し、モデル内部で演繹的推論を行い、モデル内部で成立するいくつかの結論を導き出す。この過程では、抽象化と同時に、絶対に成立しない仮定を盛り込む理想化(科学研究の常套手段)も行う。瀧澤の言葉を借りれば、このような理論モデルはメカニズムを表現する。つまり、経済理論は、現実の世界を表現しているのでもなく、モデルから得られた結論が現実の現象を100%予測するわけでもなく、現象に対して人間が何らかの概念的読み込みを行ったものとしての「メカニズム」を表現するのである。


そして瀧澤は、経済学における遂行性と、経済学がリアルな人間行動まで研究対象となったことを組み合わせ、今後の経済学が、より広い「人間科学」の一部を構成していくという方向性を提案している。これは、近年の傾向でもある人間行動に対する自然科学的アプローチすなわち自然主義へのアンチテーゼとしても捉えられる。つまり、近年の自然科学の著しい発展が人間行動をリアルに捉える成果を出してはいるが、それが、社会におけるわれわれの自己理解に影響を与え、それがわれわれの社会制度を変化させるという遂行性の作用を伴うし、別の見方をすれば、人間の操作のされやすさを利用する機会を拡張しうることに警鐘を鳴らしているわけである。そこで瀧澤は、人間は根本的に「制度をつくるヒト」であり、制度的存在であるという。制度は「第二の自然」のようなものであり、自然界に属するとも人間界に属するとも言えない。われわれが外界に創り出しているともいえるが、われわれの考え方そのものにも内在していて、外界を見る観点そのものを構成している。そのような制度の中には、正義、道徳性、自由、友情のように価値にまつわる概念が多く含まれる。よって瀧澤は、経済学は、自然科学的アプローチを包含しつつも、より広く人間に関する現象を洞察する人間科学として発展していくことが望ましいと主張するのである。