社会学とはどんな学問なのか

見田(2006)は、社会学を「関係としての人間の学」としている。「社会」というものの本体は「人間」であるが、例えば「愛」とか「闘争」は、人と人との間もしくは「関係」にある。もっと正確に言うと、人間そのものが「関係」なのだと見田は言うのである。何故かといえば、人間の本体と考えられている「意識」とか「精神」とかの実質は「言語」であるが、言語は、関係の中でしか存立しえないものだからである。物理的な「身体」にしても、これ自体が多くの生命の共生システムであるし、物理学的な極限まで突き詰めて考えても、素粒子に至ってさえ、関係のシステムだという。つまり、現代の知においては、社会であれ、人間であれ、物理的なモノであれ、本質は、関係の内にこそあるのだと見田は指摘する。


そして、近代の社会科学は、経済学、法学、政治学、等々と専門科学に分化し、社会現象のある面だけに絞って抽象化することで、めざましく発展したのに対し、現代の社会問題の基本的なもの、例えば、環境問題、資源問題、南北問題、民族問題、宗教問題、ジェンダーの問題、・・・などは、経済や法や政治や宗教や倫理や教育やメディアやテクノロジー等々を横断的に統合しなければ解けない問題になっていると見田は言う。こうしたことから、社会学は「越境する知」として、社会現象のさまざまな側面を、横断的に踏破し統合する学問として成立したという。つまり、社会学者たちは、経済学、法学、政治学、哲学、文学。心理学、人類学、歴史学、等々の領域を横断する知性だというわけである。


しかし、見田は、「横断領域的」であるということが重要なのではないという。「越境する知」というのは結果であって目的ではない。何の結果だというと、「自分にとってはほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である」という態度の結果なのだというのである。あるいは現代の人類にとって、切実にアクチュアルであると思われる問題について、手放すことなく追求し続けるという覚悟の結果である。このような人間は、やむにやまれず境界を突破するのだという。ほんとうに大切な問題をどこまでも追求していく中で、気がついたら立入禁止の立て札を踏み破っていたという時こそ、迫力があり、真実のこもったものになるという。