なぜミクロ経済学とマクロ経済学は統合されないのか

経済学は、社会科学の中でもとりわけ、物理学に代表される自然科学的なアプローチを模した学問であるとよく言われる。物理学の世界では、ニュートンのころにはすでに、天上界を支配する現象と、地上界を支配する現象を、統一した法則によって説明することに成功し、それ以降、天体といったマクロな物理現象から、素粒子のようなミクロまでを統一して説明できる理論の構築に向けた進化を遂げてきたといえる。しかし、経済学では、大きくマクロ経済学ミクロ経済学に分かれ、マクロな経済現象とミクロな経済現象を統一して説明するような体系にはなっておらず、両者が分断されているように見える。なぜ、経済学ではマクロ経済学ミクロ経済学が統合されないのだろうか。

 

この点に関して理系の立場から説明を試みているものとして、長沼(2016)が挙げられる。長沼は「理系の目から見た経済学の発展史」というユニークな視点から経済学を眺めるというスタンスを取っているため、理系の視点から、なぜマクロ経済学ミクロ経済学が分かれてしまっているのかについての考察に結び付く記述を行っている。実際、長沼は、アダム・スミスに始まる近代経済学自体が、当時の物理を見本にして生まれたとさえ言えなくないと指摘する。その経済学に影響を与えた物理の魂とはニュートンの天体力学だと。例えば、価格などが需要と供給の間でいったりきたりを繰り返しながらバランスをとって安定するという均衡の考え方が、惑星や彗星などが太陽の周囲でバランスをとって安定した軌道を保つのになぞらえたというわけである。

 

物理の世界では、ニュートンの天体力学が天体以外にも拡張され、この世のすべてに適用しようとしたように、経済学者たちも経済のみならず社会制度も含めた一種の世界観として社会全体をとらえるようになり、このような思想から一般均衡理論が成立していったのだと長沼はいう。しかし、マクロ経済学におけるケインズ経済学などは、この流れとは著しい対照をなしていると指摘する。それはなぜかというと、一般均衡理論が示すような、ミクロなレベルでの均衡の話が正しかったとしても、それらをつなげてマクロな社会を表現しようとする際には誤差が巨大な規模で表面化していくため、この体系をそのまま適用することなど到底不可能だという考えをケインズがとったのだというのである。ミクロの話をつなげても必ずしもマクロの話にならないというわけである。この点に、ミクロ経済学マクロ経済学という2つの経済学の別れ道があったといえよう。

 

マクロ経済学において、現実のマクロ的な現象を把握するには、ミクロ的な基本原理にあまり論理的に拘泥せず、健全なコモンセンスと経験的知識に基づいて大づかみに判断するしかないというのが、イギリス経験論の態度だったのだと長沼はいう。その結果、マクロ経済学では、均衡メカニズムを万能とは考えず、数学もあまり徹底して使おうとせず、とにかくいま現在、国や社会が抱えている経済問題を解決するために、いわば一回限りの理論をつくればそれでよいというスタンスが根底にあると長沼は指摘する。ケインズには、古典派のような「ミクロ的な均衡原理を基礎に、あらゆる時代、あらゆる局面で使える経済の統一理論をつくりあげよう」という意思自体が最初から希薄だったというのである。

 

その結果、ケインズの大づかみの理論を「マクロ経済学」、均衡メカニズムを基本原理としてそれを下から積み上げていくものを「ミクロ経済学」として両者を分離し、前者は政策現場で実戦に使えるが、後者はアカデミックな世界の実験室のなかでのみ使える、基礎を探求するための学問という図式が確立したと長沼はいう。ミクロ経済学は、必ずしも現実の経済政策に使えなくてもよいことになり、アカデミックな実験室の世界で一個の学問として独立して生きることが許されるようになった。マクロ経済学では、統一性にこだわらず、使えるツールを「アート」でピックアップして組み合わせて使えばよいという態度によって経済学独自の形で数学が有効に使われるようになったというのである。 

文献

長沼 伸一郎 2016「経済数学の直観的方法 マクロ経済学編」(講談社ブルーバックス)