哲学とは何か

竹田(2002)は、哲学とは「真理」をつかむための思考法ではなく、誰もが納得できる「普遍的」な世界理解のありかたを「作り出す」開かれた思考の方法だと説明する。絶対的な「真理」などないが、どんな人間にとっても共通了解できる「普遍性」を少しずつ追い求めていくというわけである。そのような試みを通して、各人が、自分の生と、自分と世界とのかかわりについて自分で了解し納得するための道具となる。


われわれ人間は、思春期から青年期にかけて「自分」というものについて急激な脱皮を経験する。この時期にはじめて、自分の生がたった一度に限定されていること、自分こそこの生の取り換えがたい主人公であること、つまり「自分という存在の絶対的な交換不可能性」に気づく。そこで「新しい自己」との折り合いがつかず、バランスを失いがちになるという意味で「自己」の危機に陥る。したがって、一人ひとりの人間が自分の固有の生と世界に対する自分なりの納得に到達するための方法が必要になる。つまり、世界を深く理解し、その原理をつかみ、自分と他人のあり方を了解する必要がでてくる。哲学は、自己了解の本質的な方法を提供し、自己と他者たちの関係の「原理」について了解するためのヒントを提供するのである。


竹田によれば、哲学は、ひとことでいえば「世界」の説明の方法である。しかし、世界の説明の方法は他にもある。例えば、宗教や宗教的神話は長く、人々に「世界の意味」を教え、説明するという役割を果たしてきた。しかし、宗教的な「物語」は、文化の枠を超えた説明を提供することはできない。それに対し、哲学は、物語を使わず「概念」を論理的に使って世界を説明しようとする。「概念を論理的に使う」という方法により、文化、宗教、民族を超えた開かれた世界説明のゲームを生み出したと竹田は解説するのである。


次に、哲学は「原理(キーワード)」を提出することによって世界を説明しようとする。「原理」とは、どういう言葉を使えばより多くの人が納得できるような世界説明になるかといった「キーワード」を意味している。森羅万象は「水」からできていると唱えたタレスの言明は、世界の構成単位という「原理」をもちいて世界を説明しようとする試みであったわけである。現在の自然科学の方法は、そもそも自然哲学の方法原理をそのまま高度化し、精緻にしたものにほかならないと竹田はいう。科学も哲学も「絶対的な真理」を捉えるものではなく、「普遍的な理解」をより深く広範にしていくための思考方法だというのである。


そして、哲学は常に1から再始発する。師の教えを弟子がそのまま守るのではなく、前の説では説明しきれない現象や矛盾をもう一度考え直し、そのつど新しい概念を立てて進むというところに特徴があると竹田はいう。前の説を妄信せず、できるだけ根本的に考え直すことで、原理をより「普遍的」なものに展開していこうとするのである。このようにして、世界について共有できる理解のあり方を取り出していこうとするのである。哲学は、自然から人間、社会すべてにおいて、できるだけものごとを根本的に考える方法を提供するのである。


哲学は、自明だと思えることでも、一度しっかり自分で考え直すための思考の方法である。そして、現在、自明だと思われているような多くの考え方、例えば「市民社会」という近代社会の基本理念も、初めから自明であったのではなく、近代哲学の発展によって形成されたのである。現在の人間の思想にしても、社会の思想にしても、近代哲学が200年ほどかけて深化させていった考え方が基本原理として用いられており、いまだこれを越えるものはほとんど出ていないと竹田は指摘する。