科学は真実を知るための方法ではない

一般的に「科学」と聞くと、我々人間にとって最も確実な知の方法であり、この世の本質もしくは真実を知るための方法であるかのように思える。確かに、まだ科学と哲学が混然一体となっていた時代には、真実を知るための方法としての科学的方法が模索され、確立されようとした時期があった。しかし、例えば野家(2015)が解説するような科学史や科学哲学を概観するならば、現在の科学が、真実を知るための方法とはいえないことがわかる。


例えば、古代の自然哲学者たちは、自然の本質を理解するための天文学や運動論を展開した。それが、コペルニクスに始まる科学革命の時代には、ガリレオによる「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」という言明に代表されるように、自然界には数学的秩序が存在し、それゆえ自然法則は観察可能な物理量の間の数学的関係として表現されるという思想が普及した。つまり、宇宙そのものに数学が埋め込まれているわけだから、数学は真実を知るための方法であり、物理量の数量的な法則性はこの世の本質を映し出していると考えられるようになっても不思議ではない。


しかしすでに、自然科学的方法が確立されたニュートンの時には、自然科学がこの世の真実を追求するという姿勢でなされるものではなかったといえる。ニュートン万有引力の「発見」によって、天体の運動と地上での運動を統一的に説明することに成功したが、ニュートンが「考案」した「万有引力」は、距離を隔てた2つの物体が引き合っていることを示しているのであり、これは素直に考えると、世の中の本質とか真実とは信じがたい。野家によれば、それはむしろ中世の魔術的自然観に回帰するものとさえ考えられたのだ。実際、ニュートンは、数々の自然現象の説明と予測を成し遂げるためにそのような(架空の)概念を作り出したにすぎないのである。


ただ、それでもニュートン万有引力の法則は、世界の本質・世界の真実を示すものに違いないという信念が世界を覆っていたのだろう。決定論的自然観がその代表例である。それが間違いであることを決定的にしたのが、野家の解説する「科学の危機」であり、それには「数学の危機」と「物理学の危機」がある。まず、数学の危機においては、非ユークリッド幾何学の発見や、集合論のパラドクスの発見によって、数学は真実を映し出すものでも何でもなく、単に形式的な整合性や無矛盾性を扱う論理ゲームのようであることが明らかになった。そして、物理学の危機においては、宇宙のようなマクロな世界はニュートン力学では十分に説明できず、光速を一定と仮定するアインシュタイン特殊相対性理論が出現した。この理論によると、空間や時間が曲がってしまうことになるのだが、それが真実だというよりも、そうすることで現象が説明できるというだけのことである。同様に、微小世界では量子力学が発展し、エネルギーが離散的な値しかとらないとか、量子の位置や運動量が確率的にしか決まらないといったことが「発見」された。


物理的に離れた物体がお互いに引き合っているとか、空間や時間が絶対的なものではなく、曲がったりするとか、そして、物体の位置や運動力が連続的ではなく、離散的・確率的にしか決まらないとかの「科学的事実」は、直感的にはこの世の本質とか真実を示しているようには思えない。しかし、野家が解説するように、科学は、狭義には「観察や実験など経験的方法に基づいて実証された法則的知識」と定義できる方法であり、それ以上でもそれ以下でもないということなのである。


科学的知識は、単に、観察可能な現象に関する、仮の説明(すなわち仮説)にすぎない。しかも、科学哲学におけるポパー反証主義や、クーンのパラダイム論の考え方を借りれば、そういった科学的知識や世界像は常に暫定的なものでしかなく、いずれ別の説明や世界像に取って代わられる可能性がある。だから、離れた物体同士が引き合うという説明とか、光の早さは常に一定で、むしろ時間や空間が相対的なものであるとか、量子の位置は確率的に決定されるといった、一見すると常識はずれの説明であっても、それが観測可能な経験と整合的でありさえすれば、それでよいのである。そもそも科学は、この世の本質とか真実を映し出すための道具ではないのだから。それらの常識はずれの説明は、それがこの世の本質なのではなく、そう説明するのが現時点では最も都合が良いというだけの話なのである。