「経験論」を基盤とする英米哲学の系譜

一ノ瀬(2016)は、英語圏の哲学的系譜すなわち英米哲学の諸潮流は「経験」を基盤に据えるという発想に導かれているとの視点から英米哲学史を概説している。一ノ瀬によれば、経験論における「経験的」とは、「努力し試みることの中において」という意味である。そこには。「知ること」と「行うこと」すなわち知識と行為とは決して峻別されることなく滑らかに連続した仕方で捉えられるものであり、努力して試みることは進展し続けるプロセスであるがゆえに「程度」を許容し計量化を志向してきたという。このような視点から、英米哲学の系譜を、イギリス経験論から始め、その発展形としての功利主義分析哲学プラグマティズム、正義論、自然主義ベイズ主義といった流れで説明するのである。

 

まず出発点として、ベーコン、ホッブズといった中世のイギリス経験論から始め、経験論の創始者といってもよいロックの哲学、そしてバークリ、ヒュームの認識論や因果論を経て、ベンサムやミルの功利主義を説明する。認識論や因果論では、人はいかにして知識や観念を獲得するのか、どのようにして世界を認識するのかといった議論が中心となっていたが、経験論の流れを汲む功利主義では「何が幸福であるか」を知ろうと努力する試みを本質的に含み、最大多数の最大幸福といったように、程度を許容し計量化を志向すると一ノ瀬は説く。そして、ミルの時代から徐々に勃興して、20世紀以降の分析哲学の潮流を形成する基盤となる「論理実証主義」や「言語行為論」が説明される。経験論の流れを汲みつつも、基本ツールとして論理学を装備するようになったのが分析哲学である。

 

論理実証主義は、マッハやブレンターノの認識論によって醸成された経験論的な傾向と、哲学の問題のすべては言語の問題だとするフレーゲラッセル、ヴィトゲンシュタインなどが促した「言語論的転回」の両方の要素が融合したもので、哲学的に有意味な命題とは、経験から独立した論理的に妥当な分析命題と、経験に基づいた事実についての総合命題の2つしかないと考える。つまり、論理実証主義は「論理」と「経験」を有意味性の源泉として認めているのだと一ノ瀬は解説している。中でも言語分析は、論理実証主義からオースティンの行為遂行的発言の分析などを発端とする言語行為論に移り、言語現象を知識と行為の融合形として扱う、すなわち言語現象を経験論的に読み解く道筋へとつながったのだという。

 

次に、パースの哲学に始まるアメリカ固有の哲学というべき潮流としてのプラグマティズムが説明される。プラグマはギリシア語で「行為・行動」の意味であり、本質的に「観念・概念」と「行動に対する影響」との間の因果関係に依拠した思想であることから、イギリス経験論や功利主義の原着想と連続しており、発展形とみなせると一ノ瀬は論じる。プラグマティズムは、ジェイムズやパースの哲学の後、デューイによってある水準まで到達し、ローティらによるネオ・プラグマティズムにつながっていったが、その中で、アブダクションの思想や真理論に拡張され、さらに、ロールズの正義論のように、倫理学・政治哲学にも波及していったという。

 

さて、現代哲学に目を向けると、もともと経験論では経験に由来する知識を前提としてきたが、これが現代の認識論や科学哲学において、とりわけ帰納法に伴う様々な根本的な問題の指摘につながったと一ノ瀬はいう。例えば、ヘンペルによって帰納法と論理学の関連から指摘された問題である「ヘンペルのカラス」、グッドマンによって提議された「グルーのパラドクス」、ポパーの「反証可能性」の議論とハンソンによって提議された「観察の理論負荷性」、クーンの「パラダイム論」などが挙げられる。そして21世紀の今日では、科学哲学の関心が「生物学の哲学」に大きく移っていると一ノ瀬は指摘する。その理由は、認識や倫理といった哲学の基本問題が、生物としての私たち人間にかかわる営みであるからである。これは、経験的に生物現象を観察するという事態の意義をどう捉えるかの問題であり、帰納法の問題を端緒として展開されてきた分析哲学的な知識論が、科学哲学の興隆を経てついには生物の問題へと収斂してきたのだと一ノ瀬はいうのである。

 

次に解説されるのが、現代分析哲学において認識論から倫理学にまたがって様々な形で展開されている「自然主義」の興隆である。これは、クワインによる「自然化された認識論」を端緒とする。クワインによるホーリズム全体論)では、私たちの知識や信念の体系は全体として「人工の構築物」であり神話であるとする。科学は単に他の神話よりも効率のよい神話であり未来を予測するための道具にすぎないというかたちでプラグマティズムへの強い支持を打ち出している。よってクワインは、私たちが事実として、どういう証拠からどういう理論や知識へ至るのかを「自然科学的」に探求する「自然化された認識論」もしくは「自然主義的認識論」を提唱したという。つまり、知識も自然現象であり、自然科学的に探究されるべきだということである。この考え方は、デイヴィッドソンによる行為の因果説や心の哲学につながり、それが、自由と責任の問題や倫理学の自然化にもつながっていったという。

 

最後に、現代分析哲学における認識の不確実性についての活発な議論が紹介される。これは、量子力学での不確定性原理などの影響を受けたものでもあるが、不確実性は「どの程度」という量的測定ともなじむ概念であり、計量化への志向性という意味での経験論の本筋に直結した思想動向だと一ノ瀬は指摘する。ここで不確実性として論じられている要素には「確率」と「曖昧性」とにかかわる問題圏に分けられる。確率についての議論には、例えば、原因と結果の間に、因果的必然性という概念に代えて確率的関係性を読み込むという議論がある。ただ、この確率的因果の考え方が完璧な説得力を持っているわけではない事例として、シンプソンのパラドクスが提唱されたりしている。曖昧性に潜む問題としては、ソライティーズ・パラドクスが取り上げられている。そして、功利主義分析哲学が融合した思想で、経験論的な哲学の今日的な姿でもあるベイズ主義が取りあげられている。

 

一ノ瀬の考えでは、経験論的発想を共有する功利主義分析哲学の融合は、究極的には因果性の概念へと収斂してくる。こうした経験論的な文脈で因果性に焦点を合わせることの視点は、経験論的発想が「知ること」と「行うこと」の連続性を起点とする思考様式である限り、「知ること」と「行うこと」の起点である「人格(パーソン)」へと回帰してくるはずである。「人格」とは責任帰属のありかであり、原因概念はもともと責任概念と同根である。経験論はこうして「人格」の問題を遠巻きにめぐりながら、巨大な渦のようなものとして、らせん状に進展していくのだと一ノ瀬は主張するのである。 

文献

一ノ瀬正樹 2016「英米哲学史講義」 (ちくま学芸文庫)