こころの「拡がり理論」は新たな地平を開くか

こころとは何かについての問いは、深く考えると非常に難解である。そもそも「こころ」はどこにあるのか。例えば「こころは脳に宿る」「こころは脳の活動から生じる」と素朴に考えたとしても、いくら脳科学の発展によって脳のメカニズムが深く理解できるようになったしても、こころの中身をのぞき込むことはできず、こころの正体にはたどり着かない。このように、突き詰めて考えるとどうしても行き詰ってしまう。

 

これに関して、石川(2012)は、こころを「魂」をとらえ、人が死ぬと「霊魂」が抜け出ると信じるような古代の時代から、私たちは何かこころというものを人間の身体の内部、もしくは脳の内部に詰め込まれたものであるという前提に立っていることがほとんどであると指摘する。これを石川は、こころの「詰め込み理論」と呼ぶ。そして石川は、詰め込み理論としてこころをとらえる限り、こころの本質の理解は前進しないという考え方に基づき、独自のアイデアとして、こころの「拡がり理論」を提唱する。

では、こころの拡がり理論とはいったいどんな理論なのだろうか。語意で考えれば、こころは人間や脳の内部に詰め込まれているのではなく、人間の外部にまで拡がった存在であるということになるが、自分のこころ(や意識)が外部にまで拡がっているとはどういうことなのか、直感的には分かりにくい。そこで石川の解説に目を向けるならば、生物の本質を意味作用に置き、「意味作用」を通じてこころを理解していくのが出発点となる。石川によれば、意味作用からこころが生まれるということであり、生物とは環境の中で意味を見出す存在である。

 

石川によれば、「意味」とはコミュニケーションが成立する基本的な要件である。人間は「意味にかかわる」ことで他者とつながり、「意味を見いだす」ことで社会における位置づけを発見する。こころの働きを特徴づけるのも「意味」であるし、「意味すること」は「生きること」であもある。私たちがコミュニケーションなどにおいて、音声や文字といった表象を手掛かりとして、何か(意味内容)を「思い浮かべる」場合、それは意味作用の1つであり、意味作用の結果がイメージである。

 

そして、意味作用は人間が行う「能動的な行為」であるというところが、人間の行動が単に外部刺激に対して機械的に反応しているのとは違うところで、現在のAIやロボットは、このような能動的な意味作用はできない。つまり、AIやロボットには、意味は分からない。表象や記号は多数の意味があるという意味で本来多義的であり、人間はその意味を状況に応じて理解している。さらに石川は、意識と無意識の関係や暗黙知の理論を用いてこの意味作用を深堀りする。

 

例えば、私たちが漢字の意味を知ろうとするとき、意識のうえでは意味を期待しながら、無意識に一点一画を含めた漢字を、意味が生まれる場全体に対して従属的に見ていると石川は解説する。暗黙知の理論でいうと、文字自体は「近位項」であり、現れると期待される意味が「遠位項」である。近位項はさまざまな要素の集まりで、遠位項は近位項が織りなす全体の「地」に対して現れる「図」であって、意味と呼ぶのにふさわしい。近位項が全体従属的に感知され、遠位項が焦点的に感知され、近位項から遠位項へと意味ある存在が現れるが、焦点的感知が意識的な働きなのに対して、全体従属的感知は、焦点化する全体の背後にさまざまな構成物を一望する無意識の働きだという。

 

石川によれば、私たちが持っている身体感覚は単なる皮膚感覚ではない。ハンマーを持てば、ハンマーが腕の一部のように感知されるし、車を運転すれば、車体が身体の一部として感知される。これは、身体感覚は暗黙知の所産であり、遠位項に相当する「意味」だということである。自分の内臓は自分の一部であっても無意識に動いており、ほとんど意識できない。しかし、他者と折り合いをつけて生きていくために有効な「意味ある行為」を探るには、意識が活用される。身体の内側は、無意識の管理下に置かれた近位項なのに対して、外側は意識によって焦点化可能な遠位項である。意識によって状況が全体的に把握されることで、身体感覚が生まれてくる。

 

ここまで理解してやっと、こころの「拡がり理論」の核心にせまることになる。石川によれば、こころは身体の内部に詰め込まれているのではなく、こころの機能を構成する拠り所は広く世界へと拡がっている。世界に拡がった諸要素が、こころの機能における近位項として働く。この近位項はほとんど無意識のうちに取り扱われるので世界へのこころの拡がりをなかなか意識できないという。しかし、文脈に応じてことばの意味が変化したり、状況によって適切な行為が変わったりするのは、私たちの外にも近位項があることを示している。これらが含まれた全体に対して意味作用が行われるのである。

 

こころの多くの部分は無意識が占めているが、無意識の働きには身体の外部にある状況などの諸要素が関わっており、これらが暗黙知の近位項として働く。この近位項には、人間の歴史、動物の歴史、生命の歴史も影響している。つまり、近位項の要素に、生物進化において意味作用を積み重ねた結果としての「歴史的事実」が寄与しているのであり、遺伝的なかかわりもある。そして、これら状況や歴史が含まれた暗黙知の遠位項を方向付けるのが意識の働きだと考えられる。つまり、人間のこころには意識面と無意識面があり、それらは協調して暗黙知を実現し、意味を形成しているわけである。このような「拡がり理論」に基づけば、私たちのこころは、私たちの身体を「拠点」として拡がっていると考えられる。

 

さて、意味とは生存に有効な行為を示唆するものであると石川はいう。そして、あらゆる生命は生きているがゆえに能動的な行為による意味作用を発揮しているから、こころを持つといえる。暗黙知の遠位項を方向付けるのが意識の働きだとすれば、原始的な生物にも「弱い意識」があると考えられる。ただ、「拡がり理論」に基づくならば、意識そのものよりも、そこに意味作用が働いているかを問題にすべきなのだと石川はいう。 下等とされる動物の意味作用と人間の意味作用とを比べて、「人間らしいこころ」とは何かを考えるならば、それは、コミュニケーションという場全体において、状況や歴史の共有を背景にして「共通した意味」があたかも共鳴するように人々の心に生成するところにあると石川は論じるのである。

文献

石川幹人 2012「人間とはどういう生物か―心・脳・意識のふしぎを解く」(ちくま新書)