人生が変わる現代思想と精神分析

千葉(2022)は、現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになるという。単純化できない現実の難しさを、以前より高い解像度で捉えられるようになるというのである。その1つの例が、秩序と逸脱という二項対立の脱構築という考え方である。千葉によれば、現代は、世の中を「きちんとしていく」方向に改革が進んでいる。すなわち、ルール化、秩序化を重視し、ルールを守らず、秩序から外れる「だらしないもの」すなわち逸脱を切り捨てたり取り締まったり無視したりする。これは単純化なのであるが、単純化は個別具的なものから目を逸らす原因となる。現代思想は、物事を「秩序と逸脱」のように二項対立として捉え、どちらが良い、どちらが悪いという議論を一旦留保する。そうすることで、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるものに着目するという。排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定するわけである。

 

上記の話を自分の人生になぞらえていうならば、現代では、自分で自分の行動をきっちりとコントロールでき、主体的・能動的であるべきで、受け身ではよくないといった生き方が推奨されつつある。しかし、他者と生きている現実では、他者に主導権があり、他者に振り回され、受動的にならざるを得ないこともある。であるから、「能動性と受動性」の二項対立についても、どちらがプラスでどちらがマイナスかということは単純に決定できない。むしろ、能動性と受動性が違いを押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがあると千葉はいう。これは、自分の秩序に従わない他者を受け入れるということでもあり、そこに人生の魅力があるというのである。現代思想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたいという思いに介入するのである。

 

自分でコントロールしきれないものが大事だという現代思想の基本的な発想につながったものの1つに、フロイトが創始した精神分析がある。千葉によれば、精神分析の実践とは、自分の中にあるコントロールから逃れるような欲望のあり方を発見することである。自由連想法を用いて、記憶の中にあるありとあらゆることを芋づる式に引きずり出し、いろんな過去の出来事が「偶然的に」ある構造を形作っている、すなわち過去の諸々の偶然性からなる「無意識」を、自分がコントロールできない「他者」として認識させようとする。一方、人間の意識としては、全くわからずに自分の人生が方向づけられているとは思いたくないため、意識の表側で何らかの意味づけを行い、物語化することで生きている。ただ、そのような物語的理由づけによって症状が固定化されていると精神分析では考えるのである。つまり、秩序とは偶然を馴致し必然化しようとする働きであるために、秩序を重んじる意識は、訳もわからず要素がただ野放図に四方八方につながりうる世界が下に潜在しているという構造を抑圧してしまうことで症状が出ると考えるのである。

 

千葉は、現代思想が、精神分析の胸を借りるような形で自分の思想を形成しているという面があると指摘した上で、とりわけ影響力のあるラカン精神分析について説明する。ラカン精神分析の根底にあるのは、「人間は過剰な動物だ」という定義である。千葉によれば、過剰さとは、「人間はエネルギーを余している」ということであるが、それは、秩序からの逸脱性を表している。人間は、脳神経の発達のために認識の多様性を持っているため、それが過剰さを生み出している。人間は成長の過程で、人間を取り巻く第一の自然である「本能」ではなく、第二の自然である「制度」によって、そもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーを何とか制御し、整流していく。つまり、人間は、認知エネルギー(欲動)が余剰に溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であるので、そこに制約をかけて自分を安定させることに快を見出し、規律訓練を求める。しかし、一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいというような、規律・秩序からの逸脱という衝動もある。

 

上記のように、人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に、あるいは制度によって、自分を有限化することで安定して快を得ているという、エネルギーの解放と有限化の二重のプロセスがあり、そのジレンマがまさに人間的ドラマであることを理解するのが大切だと千葉はいうのである。二項対立を認識した上で、どちらが良い、悪いという判断は留保するのである。余剰を持った欲動は、人間の本能的傾向とは別に、欲動の可塑性というものを持っており、それは一種の逸脱として再形成される。私たちが正常と思っているものも、正常という逸脱でありうる。このような前提のもとでラカンは、人間がいかに人間になっていくか、すなわち成長していくかを、人間がいかに限定化され、有限化されるかという視点で分析する。

 

千葉によれば、ラカンは、大きく3つの領域で精神を考えている。1つ目は「想像界」で、イメージの領域である。2つ目は「象徴界」で、言語(記号)の領域である。この2つが合わさることで、ものがイメージとして知覚され、言語によって区別されることで認識を成立させるが、第3としての「現実界」は、イメージでも言語でも捉えることができない、認識から逃れる領域である。別の言い方をすれば、人間が生まれたばかりの時は現実界しかないわけで、そこから成長するに従ってまずイメージの世界が形成され、言語の習得によって物事を分けることができるようになる。徐々に想像界に対して象徴界が優位になり、混乱したつながりが言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。これは世界が客観化されることでもあるが、想像的エネルギーの爆発は抑制されてしまう。つまり、いろんなものを区別せずつなげていく想像力は弱まっていく。そして、認識が成立していく過程で失われるものが、イメージにも言語にもできない「本当のもの」、成長する前の原初の時には経験できていた現実界だというのである。

文献

千葉雅也 2022「現代思想入門」(講談社現代新書)