民主主義とは異なる中国の統治システム

中国ではいまだ民主化が進んでいないという見方が大勢である。橋爪・大澤・宮台(2013)によれば、共産党一党支配下の中国は「社会主義市場経済」を標榜しており、民主主義市場経済ではない。また、宮台は、「中国が市場経済化と民主化を両立させることはできない」という渡米して近代的社会科学の知識を身に着けた中国人エリートの意見を紹介している。民主主義なるものの最終価値は、「人民による政治」だということを宮台は示唆するが、では、中国は、民主主義ではないがゆえに、民意が政治に反映されない統治システムだといえるのだろうか。これを理解するには、中国の長い歴史において貫かれてきた欧米とは異なる伝統的な統治の考え方がヒントになると思われる。

 

まず、橋爪は、中国人の第一公理が「トップリーダーは有能でなければならない」、世襲のためトップリーダーが有能でない場合の第二公理が「ブレーンが有能でなければならない」であるから、君主と君主の手足になって働く行政官僚が有能であればよいというのが中国人の考えで、その有能な行政官僚を要請するのが儒教であったという。官僚における科挙の制度や抜擢人事による徹底した能力主義と、君子の世襲に基づく世代を超えた安定性の両方を組み合わせることで優れた統治を行うというシステムであったわけで、君子も官僚も有能ではなくなってしまった場合には、「全取っ換え」が起こるが、これが「易姓革命」といわれるもので、それは農民の総意なのだという。つまり、中国の人々はまったく容赦がなく、中国の歴史は交代の歴史、革命の歴史だというのである。

 

中国の伝統的な統治が上記のような特徴だとすれば、現在まで伝統が継続している中国での統治方法は本質的に民意が反映されないものであるといえるだろうか。歴史的に見れば、欧米の民主主義とは異なるが、何らかのかたちで民意が働いてきたとはいえるだろう。実際、中国の歴史では、農民の中からリーダーにのし上がった英雄が大勢現れて各地で予選、準決勝、決勝を行い、新たな統治者が現れ、新たな政府が誕生する。これは天命すなわち天の意志と解釈される。この政府の交替が繰り返し起こってきた。このような革命を儒教は承認するのであり、革命を承認する政治思想という点では、マルクス主義と似ていると橋爪は指摘する。

 

いったん「全取っ換え」が起こり、新たな君子、あらたな統治が生まれるのであれば、君子の存在とその血統による世襲を通じて政権を安定させることを正統化するためのロジックが必要になる。そこで重要な役割を果たすのが中国における永遠不変な「天」の概念である。天が、「天命」によって君子や政府に統治権を授与することで正統性が生まれるのである。大澤は、ただ、天命は、実際に天が下りてきて統治権を渡したりする形でくだされるわけではないから、状況証拠みたいなものが必要である。それは、農民が文句を言っていないということであり、逆に言えば、農民が文句を言って各地で反乱が起きたりすると、そのときの皇帝の天命はもう尽きたとなるのだと論じる。

 

つまり、中国では、政権による持続的、継承的支配の正統性の究極的な根拠として「天」を考えたわけであるが、その「天」が、政権はときには交替しなくてはならないという論理も内包することになり、易姓革命の論理が不可避になったと大澤は指摘するのである。ただ、神と違って天には人格がない。最後の審判もない。天命によって統治権力をある人に与えたあと、チェックがない。契約ではなく丸投げなんだと橋爪は指摘する。したがって、皇帝は、政治権力者として振る舞うとうパフォーマンスをやりつづけるのが自己正当化になるというシステムで中国はずっと来ているというのである。

 

では、現代における中華人民共和国と、失脚することなく何十年間も共産党の頂点に君臨していた毛沢東の存在はどのように理解すればよいのだろうか。とりわけ、大躍進政策文化大革命など、半端ない大失政を行ってきたにもかかわらず、毛沢東の権威は現在でも持続していると大澤は指摘する。そして、それは毛沢東が「世俗化された皇帝」として機能したからだろうと大澤は述べる。毛沢東が意図的にそうして操作したわけではないだろうが、彼の振る舞いが、天と天子を持っている中華帝国という核となる文化的要素でありシステムにはまっていったのだというのである。

 

そして、鄧小平以降の改革開放と文化大革命の関係については、通常は、文化大革命がとてつもなく中国経済の足を引っ張って、それを克服するために改革開放が進んだと理解されがちであるが、大澤は、文化大革命市場経済に適さないような様々な中国の伝統や習慣、行動様式を一掃したことで伝統の桎梏から解放された人々を大量に生み出したという思わぬ作用、意図せざる効果があって、そういう状況で一挙に改革開放が行われたので、人々は自由に新しい制度に対応できた、すなわち、改革開放こそ、文化大革命の最終的な仕上げだったのだという側面があるのだと論じる。まさに、中国人による「人生万事塞翁が馬」の考え方のように、文化大革命は明らかに悲劇だったが、後になって「それが捨て石になって、いまがある」と理解できるのではないかと宮台は指摘する。

文献

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司 (2013)「おどろきの中国」(講談社現代新書)