中国史から学ぶ中国大陸の地政学

片山(2016)は、外側からはなかなかうかがい知ることのできない中国を理解するために、中国史が役立つことを指摘している。まず、中国を理解する上で重要なのが、中国には北の南の2つの中心があるということである。片山によれば、4世紀以前は、中国史の主な舞台は、中国大陸における黄河下流域の「中原」あるいは「華北」といわれる地域に限られていたが、長い年月をかけて長江下流域の「江南の開発」が進んだことで、中国史は北の「中原」と南の「江南」の2つの中心を持つことになった。その後、中国史は、「中原」と「江南」というお互いに深く依存しながらも相容れない性質を持った2つの地域の相克や興亡によって織りなされるようになった。とりわけ、隋の時代に中原と江南という2つの世界が大運河で結ばれたことで、中国史の複雑な愛憎劇の幕が上がったように思うと片山は述べている。


片山によれば、もともと「中原を制するものは天下を制す」という言葉が示すように、中国大陸において中原は中国を統一する強大な権力を築くために重要な地域であった。中国歴代王朝の都の多くが長安や洛陽など中原の中心に置かれていたのはそのためである。一方、江南は日本に似た高温多湿の気候で水稲が栽培されていたが、江南の開発により生産力の上昇や商業の発達を招き、経済の中心になっていった。江南は過剰な生産力を抱えているため、さらに豊かになるためには、中原という広大な市場が必要である。一方、中原は腹や物欲を満たすために江南の農産物や特産品が必要で、それを買うためには政治の中心となって、権力を築き、税金を取り立てなければならない。中原はその権力によって得た税金で軍事力を養い、北方からの遊牧民族の侵入にも備えなければならない。このような状況によって、隋から宋に至る歴史の中で、中原が政治と軍事を担い、江南が経済や文化を担うという分業が確立していったのだと片山は解説する。


中国大陸を、中原と江南の2つの中心を持つものとして理解すると、中国において儒教道教という水と油のような思想が長いあいだ共存していた理由が見えてくると片山はいう。例えば、江南は食べ物には困らないので江南の世界に引きこもり、緑滴る豊かな自然のなかで、山水と戯れ、なるようになるという老荘思想を地で行くことができる。江南は常に政治のくびきから離れ、変化する自然にすべてを委ねて、自由放任で生きていたいと望んできたわけである。江南は必ずしも中原を必要としないので中国の統一に関心がなく、中原が大運河や万里の長城のような巨大公共事業や軍事力増強のための重税を課すと、それに耐えきれず分離派になりやすいのだと片山はいう。一方、中原は江南なしには生きていけないため、なんとか江南を引き留めようとしてきた。儒教は中原の思想となり、道徳や規律を重んじることで、勝手気ままな江南を制御しようとしてきたわけである。したがって、中国を統一するのは常に中原の勢力であって、江南が中国を統一したことは一度もないのだと片山は指摘する。


上記を含む中国史の知識を援用すれば、なぜ第二次世界大戦後に中国共産党中国国民党を倒して中国を統一することができたのかの理由を紐解くことができることを片山は示唆する。その理由の1つは、共産党が北に拠点を置いて、南に攻め入ったからである。共産党は、南の瑞金から農民を結集して軍隊に組織しつつ、「長征」によって北の延安に拠点を移した。北から南に攻め入って中国全土を統一するのが中国史の必勝パターンなのである。また、中国史においては、これまで王朝の重税や圧政に農民が耐えられなくなると反乱が起こり王朝が倒れることが繰り返されてきた。よって、中国共産党は農民を結集することで農民反乱のパターンを作って既存の勢力を倒すことに成功し、内戦終了後は、毛沢東の「大躍進政策」や「文化大革命」など、農民の前に立ちはだかる社会全体の敵やノルマを設定し、それに勝ったり乗り越えたりする運動を演出することで、農民に自分たちが権力の主体であり、新しい国の主役であることを信じこませてきた。そのおかげで、共産党は権力を維持できたのだと片山は指摘している。