「世界統合」vs「勢力均衡」で理解する世界史と未来の世界

長沼(2021)は、E.H.カーの「歴史とは、現在と過去との対話である」という言葉を引きながら、現代の私たちが未来をどう見るかで、どのように過去からのストーリーを決めるのだという。そのような視点から、長沼は、「未来はコンピューター化された経済力やメディアなどの目に見えないパワーに動かされる、それは、見えない皇帝と呼ぶべき非人格的な力が世界を画一的に統合する専制帝国化によるものだろう」という見方から、過去の世界史を、「世界統合」と「勢力均衡」という構造で捉えることの重要性を説く。この「世界統合」vs「勢力均衡」というテーマは、「世界を根本的にどのようなシステムで運営するか」の選択の問題として存在してきたと長沼はいう。

 

長沼によれば、古代においてローマ世界は、ローマが地中海を制覇してローマ帝国という単一の帝国に統合した世界であり、ギリシャ世界は、多数の都市国家が対等な立場で並立する世界であった。ナポレオン戦争が勃発した時代では、ナポレオンがヨーロッパ全体をフランスの三色旗の旗に統合するという「世界統合型」のビジョンで動いていたのに対し、英国はむしろ大陸内部に単一の覇権国家が生まれることを阻止し、複数の国家がバランスをとりながら並立する「勢力均衡型」の世界を志向していた。ナポレオン戦争はまさに「世界統合型」と「勢力均衡型」の2つの理念が激突する戦争だったが、英国が勝つことで、ヨーロッパ社会は以前からの勢力均衡型の世界が守られてそのまま続くことになったのだと長沼は解説する。

 

一方、中国史を見てみると、中国の場合は、魏や楚などの有力諸国が並立する勢力均衡型の世界に近いものだったのが、秦の始皇帝によって中国統一が成し遂げられて以降、単一の帝国に統合される世界が続いている。その結果、勢力均衡型の西欧に似た一種の溌剌さが希薄化していき、大きな権力の下で管理社会の中の沈滞した精神のようなものに国全体が覆われていったようにみえると長沼はいう。つまり、世界史を眺めると、西欧社会は基本的に勢力均衡型として成り立ってきたのに対し、中国は基本的に単一の帝国からなる世界統合型として成り立っていたというわけである。地政学的に見ても、大陸内部の地形が基本的に平原である中国は単一の帝国になりやすく、海が切り込んでいたり大山脈が大陸を分断するような欧州では勢力均衡が維持されることができたと考えられると長沼はいう。

 

世界統合型と勢力均衡型の特徴を見てみると、世界統合型の体制では、ひとたび帝国の支配を受け入れれば、自由と独立を手放した代償として平和と安定を享受することができる。一方、勢力均衡型の体制は、たしかに自由と独立は持ち続けることができるが、その自由は時に戦争という手段で守られるものであるため、日常的に戦争に明け暮れる世界であると長沼はいう。そして重要なのは、いったん単一帝国型になってしまった世界では、壊れてしまった勢力均衡時の地域的なつながりやデリケートな伝統を、社会全体でバランスをとるようなかたちでうまく再建することが非常に難しいことである。つまり、世界統合型の巨大帝国への移行は一種の不可逆過程だと長沼は主張するのである。

 

そして、世界史を踏まえつつ現在のわたしたちの世界を眺めると、中国史のなかで起こっていた不可逆的変化に似たものが、まさにこの世界で起こりつつあるように思えると長沼はいう。現在進行中のグローバリゼーションの理念は、明らかに一種の「世界統合」を志向するものであるが、それは無形化した力が国境を超えて液体のように浸透していくかたちで進む、全く新しいタイプの世界統合だという。つまり、現在のグローバリゼーションは、経済やメディアといった抽象的、無形化的な意味においては中国のような地形の平坦化・平原化が進行しており、始皇帝的な単一世界による一種の専制体制への道を生みかねないと長沼は警鐘を鳴らす。ただ、これまでと違うのは、世界を統合しようとする「皇帝の意志」に相当するものは非人格的な存在だということである。

 

具体的には、現在では国境をまたいで巨大化するこのマーケットとメディアの複合体の中に、社会の全ての力が集まってきていると長沼は指摘する。実際、経済活動のパターンが各国で同一化することで、同じ商品やサービスを世界中のどこでも売れるようになり、企業の無国籍化・多国籍化も容易になってきている。さらに世界全体で生活習慣や制度などが次第に画一化してくると、法律も同じものでよいという話になり、国境線自体が次第に意味を失っていくだろう。こう考えると、現代ではたとえ始皇帝のような人物が存在しなくても、社会にこのようなみえない力が働いて、世界を画一的な単一の帝国へと推進する仕掛けになっている。

 

そして社会内部では、一人ひとりが直接その巨大権力と平等につながることで、地域の伝統的なつながりは不要なものとして消えていく。こういう社会は一見、非常に自由にみえはするのだが、実際には人々は心の底で自分がそのみえない巨大権力の操り人形でしかないことに気づき、虚無と無力感の中に沈んでいく傾向が強いと長沼はいう。

 

さらに長沼は、アメリカの民主政治を考察したフランスの政治学トクヴィルの言葉を引く。トクヴィルは「あまりにも自由で平等な社会では真の意味での社会の多様性は消滅するだろう」「現代世界では、全ての民族や全ての人々は、たとえ互いに模倣しあわずとも似通ったものになっていき、世界中どこにいっても同一の行動様式、思考様式が見られるようになっている」と指摘する。つまり、民主社会において人々が短期的願望を追求する結果、表面的には多様性のある社会となっても、基本的な価値観や制度などのもっと根本的なメカニズム部分(長期的願望)では逆に画一化していくという説を長沼は紹介する。

 

今後、このようなグローバリゼーションによる世界統合の動きに対抗することは可能なのか。近年進行中のグローバリゼーションに逆行するような政治経済の動きはそれを示しているのか。私たちは現在、ナポレオン戦争のときのように、グローバリゼーションを巡って繰り広げられる一種の無形化した大きな戦いのさなかにいるのだといえよう。

文献

長沼伸一郎 2021「世界史の構造的理解 現代の「見えない皇帝」と日本の武器」PHP研究所