私たちが中国史を考える際、どうしても日本とのつながりを中心に、日本側から中国大陸を眺めることになるので、海を挟んだ隣国の中国は、太古より強大な統一国家で、アジアの覇権国家であったというようなイメージを持ちがちである。しかし、岡本(2019)によれば、中国は、地球上でもっとも大きく、面積比で相対的に海岸線が短いユーラシア大陸の東側、シルクロードの東端に位置する場所にあり、ユーラシア大陸の西方とのつながりが重要であり、黄河文明をはじめとして、常にユーラシア大陸の西方から文化や人が流入するなどの影響を受けてきたと捉えるほうが適切であることが示唆される。つまり、「リアル中国史」の真髄は、日本側(東側)から中国を見るのではなく、ユーラシア大陸の西側から中国を様子を見ることによって掴むことができるというわけである。
このような視点から中国史を理解する鍵となるのが、ユーラシアの海岸近くの湿潤地域で活動していた農耕民と、ユーラシア内陸部の乾燥地帯で活動していた遊牧民が交流する地帯から文明が生じたということである。黄河文明もそれにあたるが、西のオリエント文明から中央アジアを経由した影響を受けて生じたと考えられると岡本は指摘する。また、中華という意識が生まれた要因として、中華を囲む外夷(野蛮人)いたからこそという指摘も岡本はする。もともと中原と呼ばれる狭い範囲にあった中華は、周辺の夷とりわけ遊牧民との接触を繰り返すことで、相手を同化させると同時に、相手の文化を取り入れるなどの交渉を経て、少しずつ拡大し、淘汰を繰り返してきたのだというわけである。それがやがて秦漢帝国と呼ばれる統一国家に発展したという。
後漢の時代は、常に西方にいる遊牧民、匈奴の脅威があった。その後、シルクロードを通じた経済活動の発展により一時は東西平和の時代が到来したが、地球の寒冷化が起こったことで民族大移動が起こり、混迷の300年が生じたと岡本はいう。寒冷化でユーラシア大陸の北の遊牧民が生存のためにやむなく南下を始めると、ヨーロッパでは大混乱が生じ、中国側でも「華夷雑居」と呼ばれるように、中国内部に異なる種族・集団が少しずつ入り込んできた。やがて、中原に住んでいた漢人以外の胡族(匈奴、鮮卑、羯(けつ)、氐(てい)、羌(きょう))が作った五胡十国を経て、北の強力な異民族である柔然や突厥の圧迫を受けた鮮卑の北魏が南下し、南北朝の北朝として華北・中原を支配するようになった。
隋唐の時代になると、特に唐は遊牧圏と仏教権を巻き込みながら拡大を続けた。西の突厥や中央アジアのオアシス都市群を巻き込み、南の仏教圏にも進出することで、多元国家として仏教の価値観を共有し、遊牧民と農耕民を融合するレベルで南北の統合を図ったのだと岡本は解説する。特に注目すべきは、圧倒的な軍事力を持ち、南北朝を属国とさえみなしていた突厥とのパワーバランスが変化し、突厥が中原の王朝に屈服するようになったことである。もともと遊牧だけでは生活が成り立たない突厥は、シルクロードを掌握し、ペルシア系の商業民であるソグド人などともタイアップしていたのだが、唐は突厥の遊牧世界やその保護下にあるソグド人などをすべて抱え込んでいったのである。国際都市として栄えた長安を都とする多元国家・唐の繁栄はソグド人に支えられたとさえ岡本はいう。
多元的な政治状況をうまく捌けなくなった唐が解体していくと、突厥の後に台頭した強力なトルコ系遊牧国家ウイグルがそこに迫り、西側では吐蕃(チベット)も勢力を拡大してきた。8世紀から9世紀にかけて、温暖化などの影響でウイグルが東から西へ移動し、中央アジアのトルコ化が進むと、ウイグル人が抜けた東アジアで、モンゴル系・ツングース系の遊牧民・狩猟民が力を持つようになったと岡本はいう。モンゴル系遊牧民で代表的なのが契丹で、ツングース系狩猟民は、唐の時代に渤海を建国しており、契丹を打倒するなど東側から台頭して草原地帯を制覇していった。ウイグルに続き、ツングース系民族の金王朝に追われた契丹も西に移動したが、モンゴリアあたりの草原の一部に空白地帯が生じたことから部族同士の争いが激化し、その混沌を勝ち抜いて登場したのが、後に大帝国を築くモンゴル部族であったと岡本はいう。
モンゴル帝国がユーラシアを貫通すると、中央アジアを拠点として中国内を始めとして各地に帝国の影響が及んだ。商業資本が各地に拡大し、中央アジア出身のトルコ系ウイグルやイラン系ムスリムなどの色目人が活躍した。しかし、地球の寒冷化が始まるとヨーロッパでは黒死病が、ユーラシアの他の地域でも疫病が蔓延し、農作物の作柄も悪化し、ユーラシア世界が一転して大不況に陥り、モンゴル帝国も衰退したと岡本は指摘する。その結果、中央アジア自体も東アジアとの関係が希薄になり、イスラーム化が進展して、東西を結ぶ懸け橋から東西を隔てる障壁に転化してしまったのだというのである。そして中国では、モンゴル帝国の混一(遊牧民と農耕民、商人と軍隊など多元的なユニットの共存)への抵抗と否定から、農耕世界だけの分離・独立と中華と外夷の分断’(華夷殊別)を基本方針とし、漢民族だけの王朝を目指した明朝が勃興したと岡本は解説する。
ところが、北虜南倭と呼ばれるとおり、明朝は、北はモンゴルなどの遊牧民、南は倭寇に苦しむこととなり、遼東地域においてツングース系ジュシェン(女真)である満州人が団結し、後金として政治的に力を持つようになったことから、清朝政権が起こったという。清朝政権は一転して華夷殊別から華夷一家を志向し、かつての明朝だった中国全土に加え、モンゴルとチベットを帰服された。さらにその後、モンゴルとの絡みで中央アジアの東半分にあたる東トルキスタンも取り込み、きわめて大きな版図と多元的な人々を抱えた政権に発展した。満州人に漢人、モンゴル人、チベット人にムスリムも加わったすべてを清朝の皇帝がすべて統治するという形だったのだという。
その後、大航海時代の影響で中国には南北の違いに加えて東西の違いも生まれ、空間的にもバラバラとなり、ヨーロッパのアジアへの進出とともに中国社会の多元構造がいっそう深刻かつ鮮明になったと岡本はいう。そこで、ヨーロッパの近代国家やそれを見習った日本をモデルとする国民国家の形成を目指したが、単一構造的な社会だからこそ生まれた国民国家を多元的な中国社会に適応するには無理があった。つまり、国民国家形成というイデオロギーと、歴史的に多元性をきわめてきた現実のあいだには容易に埋められない深いギャップがある。埋まるまで永遠に革命を続けなければならない。ここに、今日も続く中国の混迷と苦悩の出発点があると岡本は指摘するのである。
文献
岡本隆司 2019「世界史とつなげて学ぶ 中国全史」東洋経済新報社