機能主義社会学と意味の社会学は統合可能か

大澤(2019)は、社会学とは「社会秩序はいかにして可能か」を固有の主題とする学問であると前置きした上で、社会学の理論の基本的なスタイルが確立された時代の代表的な学派としてパーソンズによって切り拓かれた機能主義を、そして機能主義を批判する立場から勢力を拡大してきた現象学的社会学エスノメソドロジーなど諸々の流派の総称として、「意味」の社会学を紹介している。そして、機能主義と意味の社会学は、元来、互いに反発する関係のみで、両者の間にはなんら創造的な関係はなかったと説明しながらも、大澤本人は、この2種類の社会学を生産的に関係づけて統一的な理解の中に収めることが可能ではないかと論じる。


パーソンズによる機能主義もしくは構造-機能主義は、ある社会状態の出現とその変動(別の社会状態への変化)を説明する社会理論である。この理論の核である構造-機能分析では、統一性を持ち自らを維持している社会システムの構造を記述し、その構造が、どのような機能的条件(社会システムが維持されるために必要とされること)を充足しているかに注目して構造を説明する。パーソンズによれば、社会システムの構造を決定付ける個々の要素は「社会的行為」である。社会的諸行為や諸集団は、システムの機能の達成のために必要な「役割」を分担しており、社会システムはさまざまな役割の関係としての構造を持っていると理解する。そして、現在の社会構造において機能的要件が満足できる水準で満たされていなければ、社会構造が変更されるとする。つまり、帰納的要件の達成度を通じて社会構造が制御されているというサイバネティクス的な発想が含まれていると大澤は指摘する。


さらに、マートンは、潜在的機能と顕在的機能の区別を機能主義の理論に付け加えることで、機能主義への批判を克服しようとした。顕在的機能は、社会システムの内部にいる者が意識している(自覚的に目指している)機能であり、潜在的機能は、顕在的機能の副産物としかもたらされない機能である。ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の内容を例に挙げれば、プロテスタントによる世俗内禁欲「神の国に入るに相応しい者として神の視点で評価されること」は顕在的機能で、その副産物としての潜在的機能として「資本主義の精神」があったという説明になる。言い換えれば、潜在的機能としての資本主義の精神は、社会システムの中にいる人々(プロテスタント)が意識的に目指すような目的ではなかったということなのである。


一方、アメリカを中心に機能主義に挑戦し続けていた社会学の潮流として1970年代以降に影響力を発揮するようになったのが、大澤がいうところの「<意味>の社会学」である。これは1つの学派ではなく、この潮流の中の様々な社会学者が、人間諸個人のしばしば言語や記号を媒介にしてなされる主体的な解釈の活動を重視し、とりわけ<意味>の概念を中核に置いていたという共通性に基づく命名だと大澤はいう。この潮流には、ミードからシュッツに至る現象学的社会学、バーガーとルックマンの知識社会学、ブルーマーのシンボリック相互作用論、ガーフィンケルエスノメソドロジー、ゴフマンの演技としての相互作用などが含まれる。これらの社会学では、社会学の対象としての社会的行為、そして社会的行為に結び付けられる主観的に思念された意味に着目する。これらの社会学は、人間がどうやって社会的世界を生き生きと意味づけていくのかという側面が重要だという視点に立つ。


大澤によれば、社会学における行為とは、主観的に思念された意味を行動に結びつけることである。例えば、シンボリック相互作用論によれば、人々は事象に付与した意味に基づいて行動している。そして、意味は社会的な相互作用において生み出され、人間によって解釈されることで実現する。知識社会学では、現実は人間が解釈したり意味を付与したりしなければ現実にならないと考える。つまり社会的現実とは人間の知識に媒介された構築物なのである。エスノメソドロジーでは、社会秩序がいかにして構築され維持されているのかについて徹底的にミクロで繊細な観察から、人々が日常的に使っている方法の理解を深めようとする。ゴフマンの相互作用論では、人々の相互作用や社会秩序が役割演技として成り立っていると指摘し、その役割演技において自己と役割がトータルに同一化されておらず、それが役割距離を生み出していることを主張する。


さて、これまで説明した<機能>を核に据えた社会学と<意味>を核に据えた社会学とは、相互に無関係で反発の関係にあるように思われるが、大澤は、トマス=ズナニエツキの「ポーランド農民」出自の「トマスの定理」を持ち出すことにより、両者の統合の可能性を論じる。トマスの定理とは、人々がある状況を現実として定義するならば、その状況は現実になるという考え方である。意味の社会学は、トマスの定理を理論的に精緻化した社会学だと大澤はいう。そして、行為者が現実に意味を見出したり、何らかの役割に同一化するとき、そうした意味や役割に肯定的な価値を付与するようなシステムや状況が前提として選択されている。これを行為以前の行為あるいは超越論的選択だとするならば、無意識的な超越論的選択が暗黙的に目的として指向しているものは機能主義における機能要件だと考えられるというのである。マートンが言うように真の機能は潜在的であり、その理由は、真の機能が超越論的選択と相関しているからである。このように考えるならば、機能的要件を用いた社会システムの説明と、意味を活用した社会秩序の説明とはまったく矛盾しないし、それどころか、互いに補い合っているのだと大澤は結論づけるのである。