ざっくりとした西洋思想入門

齋藤(2011)は、2500年の西洋思想史をざっくりとと3つの山脈でひとつかみする解説を試みている。そもそも、思想や哲学とは何かについて、齋藤は「困難を乗り越えるための薬」であり「悩みや疑問への処方箋」だという。なぜならば、西洋思想が目指した目標は「世界のすべてを説明しつくしたい」であって、そこには「世界はどうなっているのか」という大きな問題から「どう生きればよいのか」といった身近な問題まですべて包含されているからである。そのような西洋思想の歩みというのは、過去の思想を批判し、それを乗り越えようとしてきたことの歴史であり、それをざっくりと捉えると3つの山脈でひとつかみできそうだというのである。


齋藤によれば、第一の山脈は、西洋思想の始まりからアリストテレスによる体系化が影響力を持った時代で「世界の本質を1つの原理で説明したい」という欲求が追求された時代である。その考え方の代表例がプラトンの「イデア論」であり、それがキリスト教と結びつき、神の存在証明の追究に向かっていった。それに対して第二の山脈は、デカルト、カント、ヘーゲルらに代表される「近代合理主義」の時代で、キリスト教支配から脱却し、人間の認識力、合理的思考力を信頼し、近代自然科学の発展やフランス革命などの市民革命などの動きとも相まって、精神が時代さえをも動かすといったように、「人間理性」や「精神」を重視する哲学の追究がなされ、西洋哲学体系が完成されたかに見えた。そこには、デカルトによる「原点を定めてすべてを位置付けたい」という発想や、カントによる「人間の理性は認識の限界を乗り越えることができる」という発想や、ヘーゲルによる「単なる人の理性を超えた絶対精神は、世界を動かす原動力となる」という考え方などが生まれた。この時点で、人間的理性至上主義の体系が完成したというわけである。


しかし、第三の山脈である「現代思想」において、その完成されたかに見えた体系を壊す、すなわち「既存の価値観に挑戦状を叩きつける」ことで乗り越えようとする動きが見られ、合理主義の背後にある何らかの「とらわれ」や。合理的ではないなんらかの原動力に着目されるようになった。例えば、ニーチェは、私たちはありもしない真理という幻想で自らを縛りあげているのではないかと疑問を呈し、すなわち一人ひとりが「精神の奴隷」になっているのではないかと言い、勇気を持って現在の迷いの中にいる自分自身を乗り越えていく「超人」になることの重要性を主張した。自分自身をポジティブに肯定する強さすなわち「力への意志」が人間だけでなく世界を動かすのだと言った。また、ハイデガーは、私たちが存在していることは、モノが存在していることとは根本的に異なり、私たちの存在は、自らの死を含む過去・現在・未来が折り重なった時間とは切り離せない「時間的存在」であり、自ら世界を作りつつ、その中で生きる「世界内存在」だと語った。フッサールは「本質直観」「間主観性」というコンセプトなどで自分たちの生活世界を大事にする現象学を発展させ、その延長から身体の重要性を訴えるメルロ=ポンティなどの思想が生まれた。


さらには、ダーウィンの進化論、フロイト精神分析マルクス資本論などの思想が生み出され、構造主義が流行するなどの現代思想が現在も進行していることを示している。例えば、フロイトマルクスの思想は、人間の下部構造にあるものも社会の下部構造にあるものも、性や金銭(経済)といった人間の欲望を満たすものであることを示すものであった。また、ソシュール言語学では、言語そのものに意味はなく、あるのは「差異」(ある言葉と別の言葉の違いが作り出す体系)のみであるとし、言葉の体系が異なれば、その言葉を使っている人たちの社会構造や文化が違うため、ものの見方や世界のとらえ方までもが異なることを示そうとした。レヴィ=ストロースの思想は、見えないところでそれを動かしている原理が人間社会全体の背後にもあることを示そうとした。このような時代には、要素と要素間の関係からなる全体としての「構造」が重視される「構造主義」が流行し、関係性、システム、関数といった概念を重視し、この世には絶対的なものはなく、すべて相対的であるといった思想が影響力を持つようになったと齋藤は指摘している。


このように、齋藤は、西洋思想の歴史には膨大なパッションとエネルギーが詰まっており、力をもった思想は常に世界に強い衝撃を与えて、人々のものの見方を変えてきたのであるため、思想を学ぶことは、実は私たちの人生というものを大きく変換させるかもしれない、非常にスペクタクルな冒険なのだと思うとして解説を締めくくっている。