タイタニック理論とはなにか

小林・大澤(2014)では、今の時代は資本主義がグローバル化した成熟期を過ぎ、成熟がほぼ停滞し、あちこちに内破的・危機的な亀裂が生じていることが指摘されている。「○○ミクス」のようなものでそれを糊塗しようとするのだが、その陰で根源的矛盾がどんどん拡大していっているという。これを「タイタニック号」になぞらえるのが「タイタニック理論」である。


さて、小林・大澤によれば、人類の歴史の中で、「モダニティ」「モデルニテ」と呼ばれる「時代」に顕著な特徴やそれを成立している条件を一言でいうと、「テクノロジーと結託した科学的思考もしくは機械の思考」である。そしてこれと対になるのが、かつて「近代的自我」と呼ばれていた問題を扱う「主体の哲学」がある。つまり、「個」として「普遍」である「主体」が、普遍性に裏付けられた「科学言語」と、それと密接に連携した「技術」を使って世界を改造する、つまり主体にとって都合のいい環境世界、生態世界を自由につくりだしていくというものである。そこから、自由意志を通じて世界改造を行うという意志のプログラムという、巨大なダイナミズムが起動したのだという。


これは、「自由」が普遍的権利として個々の主体に与えられているという「人権」の思想が根拠であり、それが主体の普遍性を保証するものでもある。こういったワンセットの理念の群が登場したことによって、「人間、しかも個々の人間が「歴史」へと直接かかわることができる「権利」がある」という巨大な思想が動き出した。そして、いまだに、われわれはそのなかにいるというのである。


上記のような「操作的な理性の確立」と「不可能な自由に基礎付けられた主体の確立」という2つのことがヨーロッパにおいて対になって起こったのだと小林・大澤では指摘されている。では、なぜ、地域特殊性がある程度の世界に適応できる普遍性を生み出すというプロセスがヨーロッパで起こったのか。小林・大澤は、この「飛躍」は、キリスト教的、一神教的世界というのが確固とあった上で、「創造(creation)」ということでいわれるその神性を「人間」に転化することによって可能になったという。つまり、一神教的世界観が擬似的普遍性や擬似的主体性を準備していたということである。


モデルニテでは、「主体性の確立」と「物質の操作性」といった2つの大きなベクトルが生み出されたわけだが、この2つを媒介する「現実」として、「資本主義」と「国民国家」があると、小林・大澤では指摘されている。つまり、「経済体制(資本主義)」と「政治体制(国民国家)」が、「普遍性をもった個別主体」と「科学的技術世界」を媒介している。この4つの次元が相互に干渉しながら、最終的には「歴史」という第五の頂点によって統一された。歴史が「進歩」するという考え、人間がその進歩の「主体」であるという考え。つまり、先の4つの次元が、全体として「歴史」というダイナミズムを構成するというヴィジョンが生まれたというのである。


「歴史」という「総合」のヴィジョンが芽生えたことで、人類はまったく新しい、爆発的な位相に突入した。人口も莫大に増え、地球環境も大きく変わる。われわれは今もまだその「途中」にいる。しかし、この全体の五元構図もしくは立体構造を考えると、その「全体」がある限界に突入しかかっている。人類のこのシステム全体が一種の恒常的危機にさらされているのではないか。これが「タイタニック理論」のポイントである。


小林・大澤によれば、特に、「資本主義」は強力である。資本主義は、正義とか平和とか幸福とか、人間的な意味論には一切関わらずに、一元的な価値に、しかもその線形的な増殖に関わってくる。つまり、資本主義は、価値や意味をすべて抽象的な量に還元してしまう。そういう意味での量的価値の自己増殖運動が繰り返されるが、そのプロセスに意味はなく、ほとんど盲目的に動いている。誰の意思なのかもわからず、皆がそれに巻き込まれている。「壊すことが秩序だ」という特徴さえある。このような、巨大な盲目的な欲望こそ、「タイタニック」の本質であるというのである。人間的な意味が消去されているのだから、誰かが資本主義を操っているということがない。個々の「主体」に先行する「構造」が、まるで自己運動しているかのように生成変化していく。構造そのものが主体のごとく運動しているというのである。