資本論の存在論・認識論

現代は資本主義の社会だと言われている。この社会には流通市場があり、商品があり、貨幣がある。そして、資本主義である以上、資本がある。しかし、私たちが物理的な存在に対して、川がある、石があるというのとは少し異なり、流通市場も、商品も、貨幣も、資本も、人間がつくりあげた「概念」にすぎない。概念は、想像上の産物といってもよい。しかし、私たちは、流通市場、商品、貨幣、資本が、あたかもこの世界に実在するものように思っている。そして、これらの実体が、私たちの社会を成立させているのだと信じている。すなわち、私たちを取りまく資本主義社会を機能させているのが、これらの実在物の働きによるものなのだと信じている。これをどう理解すればよいのだろうか。つまり、流通市場、商品、貨幣、資本が実在するとはそもそもどういうことなのか。これは存在論の問いであろう。そして、私たちはマーケットや商品や貨幣をどのように認識するのか。これは認識論の問いであろう。このような問いに答える拠り所となるものの1つが、資本論という著者などを通じて資本主義社会の仕組みを理解しようとしたマルクスの哲学である。とりわけ、資本論において、どのように上記の存在論、認識論が展開されているのかを理解することが、上記の問いに答えるための1つのヒントとなるだろう。ここでは、熊野(2018)による、マルクス資本論の哲学の入門書を参考にしながら考えてみよう。


熊野によれば、マルクスは資本主義の分析を、商品の理解から始めている。これは、マルクスが考察しようとした社会形態が、商品交換を伴う流通が全面化した社会のあり方を前提としているからだと説明する。マルクスは商品を他者にとっての使用価値、そしてそれに関連する交換価値の面からとらえ、そしてもっと重要なこととして、商品は、商品となる運動としてだけあり、商品へと生成していく途上にのみ存在すると捉えているのだという。つまり、使用価値の視点から商品を捉えるならば、例えば店頭に並んでいる品物はいまだに商品ではなく、やがて商品になる可能性をもったものでしかない。そしてこの可能性が実現されたときにはもう商品ではない。例えば、お店でハンマーを買った瞬間にそれは商品ではなくなり、自分の大工道具の1つになる。要するに、商品とふつう呼ばれているものは未来の可能性にあって商品であり、その可能性が実現されたときにはもはや商品ではない。いつでも可能性においてあるほかはないということは、運動しているもののことだと熊野は説く。


そして、商品は流通過程において運動し、他者のための使用価値すなわち交換価値に基づいて「売れた」瞬間に、商品は商品でなくなり、貨幣に転化するという。熊野の説明では、商品は貨幣と場所を取り換えると同時に流通から脱落して消費に入る。別の言い方をすれば「商品流通は絶えず貨幣を発汗している」。そしてこの貨幣の本質も「運動」である。貨幣は購買手段として機能することで商品を流通させ、流通手段として常に流通の相面に棲みつき「絶えずその中を駆けまわっている」のだという。商品がつぎつぎと貨幣へと置き換えられ、流通から脱落していくのであれば、商品とはたんに貨幣へと置換される可能性をはらむにすぎないもの、つまり表象された貨幣にほかならないのだとも熊野はいう。


すべての商品が表象された貨幣にすぎないのであれば、貨幣のみが唯一の現実的な商品なのであり、いっさいが貨幣へと転化することが可能だとするならば、たんなる流通手段であった貨幣に対して、際限のない貨幣蓄蔵への衝動が生まれると熊野はいう。つまり、貨幣は、商品世界で繰り広げられる素材的な富のいっさいを未展開のまま含んでいるのであり、この貨幣が資本へと転化するのである。もともとは、商品生産と、発達した商品流通が資本が成立するための歴史的前提をかたちづくってきたのであり、資本はまず商品流通から生まれる貨幣として現れる。そして、貨幣蓄蔵を原型とし、貨幣蓄蔵を動機として投資された価値が、流通の中で価値量を変化させて増殖していく。貨幣がその回転の中でそれ自身運動し、循環する限りにおいては、それは資本であると熊野は論じるのである。このように、資本とは運動と生成を通して「自ら増殖する」価値のことであり、それは、貨幣資本として市場に現れ、生産資本として商品を生産し、商品資本というかたちで再び市場に登場する。こうして資本は途切れることなく循環していく。つまり、商品は商品となっていく運動であり、それは商品資本という形をとった資本形姿の1つである。資本も事物ではなく運動であり、たえず更新される生成にほかならない。資本はひとえに運動としてのみ理解しうるのである。


上記の説明の通り、マルクスによる分析における商品、貨幣、資本などは静止した状態で存在する事物ではなく、むしろ絶え間ない運動の中でのみ姿を現すものであると理解することになる。商品というのは、運動の中から立ち現れてくる存在であり、私たちはそのようなかたちでのみ商品を認識することができる。資本論においては、運動の中から立ち現れてくるものとして商品、貨幣、資本などを概念化し定義しているということでもある。資本主義の分析に登場する、使用価値や剰余価値といった価値概念も同様である。であるから、哲学的な言い方をすれば、この世の中には静止したものとしては何も存在せず、何も認識できない。この世界(社会)は、絶え間なく運動しているものとして存在し、運動の中から立ち現れてくるものとしてのみ、諸々の事物もしくは概念を認識することができるわけである。運動の中から商品が立ち現れては消えていく。貨幣は生産および流通の過程で循環し、資本も、商業資本、産業資本、金融資本など、様々な形態に転化しながら増殖していく。運動しつづけるこの世界は止まることはない。原理的に止まった世界など存在しないし認識できないという前提にたって諸概念を作り上げ、それらの諸概念の関係性や相互作用として社会の模型を作り上げ、この社会、この世の中を理解しようとしている。その1つがマルクス哲学であるといってもよいであろう。