資本論で読み解く「資本主義の暴力性」

斎藤(2021)は、世界中に豊かさをもたらすことを約束していた資本主義が私たちの生活や地球環境を急速に悪化させているといい、このまま資本主義に人類の未来を委ねて本当に大丈夫なのかという問題意識から、「資本主義の暴力性」に注目したかたちでマルクス資本論を解説している。例えば、現代の資本主義社会において、なぜ私たちはモノに振り回され、大事なものを失っていくのか、なぜ長時間労働や過労死がなくならないのか、なぜイノベーションや生産性の向上が「どうでもよい仕事」を増やしているのか、そしてなぜ資本主義社会は自然破壊を止められないのか、について、資本主義の暴力性の視点から説明している。

 

まず、資本主義は、社会における「富」をつぎつぎと「商品」に変化させることで社会を「商品の巨大な集まり」に変化させるため、その結果、私たちが商品に振り回されるようになったと斎藤は論じる。マルクスによれば、人間が行う「労働」とは、人間が自然との物質代謝を自らの行為によって媒介し、規制し、制御する一過程である。つまり、人間が自然に働きかけて自らの欲求を満たす過程において、自然と人間とは循環的な物質代謝の過程を形成しており、その循環のおかげで地球環境的にも人間社会的にも健全な富が形成されていくのが本来的にサスティナブルな(持続可能な)あり方であり、資本主義以前の社会では、その循環が保たれていたといえよう。

 

しかし、資本主義社会における「労働」は「商品」を生み出し、社会を巨大な商品の集まりに変えていく。その原動力は、「絶えず価値を増やしながら自己増殖していく運動」と定義される「資本」である。資本が重視する価値は、売れるかどうかの「価値」であり、私たちの暮らしに役立つという意味での「使用価値」とは別物である。価値を増やしつづけること、すなわち金儲けを延々と続けるのが「資本主義」なのだと斎藤は論じる。このような資本主義社会では、かつては誰もがアクセスできる共有財産だった「富」が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象としての商品に置き換わる。商品の生産の担い手である労働者は、自らの労働力を提供するだけでなく、商品の買い手となって、資本家に市場を提供するようになる。

 

そして、使用価値とは無関係に商品が社会にあふれかえり、不況による価格の暴落など、「価値」の変動に私たちは振り回されるのだと斎藤は指摘する。暮らしに役立つ「使用価値」のためにモノを作っていた時代は、人間が「物を使っていた」わけであるが、「価値」のためにモノを作る資本主義のもとでは立場が逆転し、人間がモノに振り回され、支配されるようになるというのである。これをマルクスは「物象化」という。そして、売れるかどうかの価値のみを目的とした生産の効率化は、本当に必要な物やサービスを削り、質を低下させて、社会の富を貧しくしていくと齋藤はいう。資本主義的生産様式というのは、価値を増やし、資本を増やすことを目的とする商品生産に歪められた労働を伴うのである。

 

資本主義では、価値が主体となって、その運動が「自動化」されていく。人間も自然も、その運動に従属して、利用される存在に格下げされてしまう。資本家さえも、自動化された価値増殖運動の歯車でしかないという。そのような資本主義では、労働者が有する富である労働力を商品に閉じ込めてしまう。労働者は、生産手段から切り離され、生きていくために必要なものを生産する手立てを失い、自分自身の労働力という商品を売るしか生きる手段がない。さらに、資本主義は、共同体という富を解体してしまったので、労働者は、かつて共同体にあった相互扶助の関係性からも切り離され、自分の労働力という商品だけを頼りに必死に生きていかねばならなくなった。

 

そして労働者は、どこに自分の労働力を売るかについて自由があるがゆえに、それが逆に、自分が選んだ職場や仕事という意識を生じさせ、労働者の自発的な責任感や向上心、主体性が資本の論理に包摂されていくことになる。これが、現代の長時間労働や過労死にもつながっていると齋藤は分析する。さらに、イノベーションによる生産性向上は、価値の増殖のみならず労働者に対する支配を強化する。例えば機械化の進展で生産性が上がれば上がるほど、労働者は資本に包摂されて自律性を失い資本の奴隷になる。資本主義のもとで生産性が高まると、その過程で構想と実行が、あるいは精神的労働と肉体的労働が分断され、労働者は分業というシステムに組み込まれることで、何かをつくる生産能力も失っていく。よって、自分の労働力を「商品」として資本家に売ることでしか生活を維持する方法をなくしてしまったのだと齊藤はいう。

 

そして資本は、人間だけでなく、自然からも豊かさを一方的に吸い尽くし、その結果、人間と自然の物質代謝に取り返しのつかない亀裂を生み出す。自然からの掠奪を放置している現役世代はそのツケを将来世代に払わせ、先進国の放埓な生活は、その代償を途上国や新興国に押し付ける。斎藤はこれを「外部化」という。本来の循環過程と資本の価値増殖過程はまったく異なる論理で営まれているので、2つの過程の間に大きな乖離が生じてしまう。地球の生態環境は有限なのに資本主義は価値増殖を無限に求めるため、資本は常にコストを外部化するが、地球が有限である以上、外部も有限であるため物質代謝の亀裂は最終的には取り返しのつかないところまで深まってしまうのである。

 

齊藤によれば、ソ連崩壊後に資本主義のグローバル化が加速したことで、資本主義の暴力性によってもたらされる環境危機もグローバル化した。人間と自然の物質代謝は、本来、円を描くように営まれれる循環的な過程であるが、資本主義の暴力性は常に労働者や自然から一方的に奪い、そのコストを一方的に外部に押し付ける。その結果、商品の消費地である都市の生活は豊かになるが、地方の農村は土壌疲弊というツケを払わされ、貧しくなっていく。そして商品の恩恵を受けている都市でも、労働者は資本に強いられる長時間労働で肉体的健康を破壊されていくのである。 

文献

斎藤幸平 2021「NHK 100分 de 名著 カール・マルクス『資本論』 2021年1月」(NHK100分de名著)