資本の回転による時間の変容と空間の再編

現代社会は資本主義社会である。そういうからには、この世界を動かしている主役は「資本」である。では、資本はいかなるメカニズムをもって、この世界を変えてきたのだろうか。この点に関して、熊野(2018)はマルクス資本論を解説しつつ、資本制においては、資本が回転することによって自然的な時間のかたちを変容させ、時間作用のあり方を変容させ、つまりは時間を操作することを通じて、世界の空間的な付置を変更する。そしてそれが、生産中心地の集積や市場地の集積を促進し、最終的には少数の手のなかで資本が集中していくのだと説明する。


熊野によれば、資本とは運動と生成を通して「自ら増殖する」価値のことである。これは、資本が回転するごとに剰余価値が生み出されて資本が増殖することを示しており、生み出される剰余価値が一定であるならば、資本が高速に回転すればするほど、資本が急速に増殖していく。そして資本はそれを指向する。これが、先に述べるところの時間の変容と空間の再編を促すのである。資本が高速に回転していくメカニズムを端的に示すのがマニュファクチュアの成立と機械制工業の発展であり、マニュファクチュアの成立・発展によって時間が空間化されることで短縮されたのだという。これが機械制大工業にまで発展することで、時間の変容過程、凝縮過程が終着点を迎えたと、少なくともマルクスの眼には映し出されたということを指摘する。


資本制のもとでのマニュファクチュアから機械制大工業における時間の変容と空間の再編とはどういうことかというと、高速な回転を指向する資本に駆動される形で、労働者を「同じ空間に」に集めた協業が促進されることにより、元来、自然な時間の流れと順序によって行われてきた生産過程から多種的な手作業が引き離され、孤立化させられ、空間的に並べられ、すべての作業が協業者たちによって同時に行われるようになったことを意味している。身体運動それ事体を単線化して分散し、並行的に進行する工程のおのおのについて強いるわけである。これは労働過程を時間的に分割し、空間的に並置することにほかならず、別の言い方をすれば、時間が空間化されることを意味する。これにより、個々の作業がより少ない時間で行われるようになり、時間の濃度と強度が増し、時間が絞り取られ、搾り取られ、時間の間隙が消去され、労働の強化が行われたわけである。このようなプロセスにより、生産規模が拡大し、量的に大きな規模で生産物を供給することが可能になったのである。


マニュファクチュアにおいて、資本のために剰余価値を生産する労働者は一定の部署に釘付けになり、生きたメカニズムの手足となっていった。一方、機械制大工業のもとでは、機械が「余剰価値を生産するための手段」として資本の回転のために絶えず作動し続けるようになり、単純労働が支配的な就労形態となったわけであるから、絶えず人員交替ができるようになり、労働者たちは工場や資本に救いようもなく従属することになったのだと熊野は指摘する。こうして、機械制大工業の発展によって労働する身体はますます資本に従属することになったが、時間が変容し空間が再編されるメカニズムはマニュファクチュアと同じであるという。


そして、この資本による時間の変容と空間の再編は工場内にのみとどまらなかった。つまり、資本制の発展により、生産過程と流通過程を通して、社会全体において時間の変容と空間の再編が行われたのだと熊野は指摘する。産業資本においては、貨幣、生産要素、商品という3つの形態を遍歴し、自己運動する価値増殖体というかたちで立ち会われるわけだが、先に示されたような生産過程における時間の変容と空間の再編が、流通過程によってさらに包み込まれるかたちで循環と再生産が繰り返されるすがたで立ち現れたのだという。貨幣資本、生産資本、商品資本は、全体として、生産と流通、貨幣の回収の連続性を保ちながら途切れることなく循環していく。これに対し、資本を分割するならば、3つの循環が同時並行し、資本の運動プロセスの各部分が併存することが可能となる。例えば、生産期間と流通期間という時間が短縮化され空間化されるとは、同一商品の大量生産・大量消費という形態によって、同じ時間帯に作っているのも売っているのも同じ形態の商品であるわけだから、工場で生産された製品があたかも同時に店舗で購入可能といったような(流通過程にかかる時間が消滅したかのような)錯覚をもたらすことになぞらえよう。


さらに、資本制のもとで交通が空間を再編した事実も見逃せない。つまり、交通機関ならびに運輸機関の発達するにつれ、生産地点と市場とが結合され、あわせて両者を集積させて、都市が双方に成長することを助長していき、その帰結として、空間の濃度を塗り分け、世界の風景を描きあげていく機能すら、資本が握ってゆくことになったのだと熊野は説くのである。つまり、回転し続ける資本がこの世界を自由に闊歩し、世界の時間を変容させ空間を再編してきた結果として今の世界があるのであり、それは将来にわたっても資本主義社会が持続する限りにおいて継続していくというわけである。