資本主義社会の内在的論理

佐藤(2015)は、現代に生きる私たちにとって、目の前にある現行の資本主義システムの内在的論理をつかむことが重要だと説く。私たちは、現在、資本主義という社会システムの中にいる。システムの中にいると、実はシステムそのものことはよく分からない。わからないまま、私たちは「資本の論理」に巻き込まれている可能性がある。資本主義という社会システムに囚われ、支配され、逃げ出すことができない状態なのかもしれない。しかし、マルクスは、「資本論」において、この資本主義の内在的論理を明確に剔抉してみせた。この「資本論の論理」を身につけることで、私たちは競争社会の中ですり潰される危険から身を守り、私たちの人生を楽にできると佐藤はいうのである。


佐藤によれば、資本論の本質は、労働力商品化の論理と、そこから導かれる階級論である。つまり、商品というものを徹底的に分析していけば、最終的にはこの世の中は階級というものからできているということが資本論では明らかにされるという。マルクスが目指したのは、資本主義の経済に特化し、資本主義の内在的論理をつかむことであった。資本主義社会においては、商品経済が一社会の支配的原理として確立され、商品経済が労働力の商品化によって社会をシステム化したことを明らかにすることであった。


では、資本主義の内在的論理とは何だろうか。それは、資本が絶えざる運動を通じて人々を含む社会全体を支配しているという資本主義の本質に関する論理である。「資本」は昔から存在する。しかし、資本主義社会になると、資本が社会全体を支配するようになったのである。例えば、純粋な資本主義では、恐慌が周期的に発生する。けれども資本主義というシステムは継続する。資本は、恐慌を繰り返し、人間を疎外しながらも、あたかも永続するがごとく再生産と自己増殖を繰り返す内在的な力を持っているわけである。資本が自らを再生産する力がそれほどにも強いということである。では、なぜこのような資本主義が現代の世界を支配しているのだろうか。


実は、佐藤によれば、資本主義はイギリスのエンクロージャー(囲い込み)を機に偶然始まったものにすぎない。イギリスが寒冷化し、毛織物の需要が増加し、囲い込みで農民が農地を追われた結果、賃金労働者が生まれた。労働者は土地の縛りから自由になったが、それゆえ、売れるものは自分の労働力のみとなった。この「労働力商品化」という形で、労働力商品が労働力商品を再生産するというメカニズムが出来上がり、どんどん走り始めた。そして、それが社会の中に浸透し、結局そのゲームのルールで世界中が動くようになってしまったというわけである。


もう少し詳しく説明しよう。まず、資本主義社会は自由平等を原則としている。つまり、労働力という商品を自由に売買することで成り立っている。そもそも、労働者は土地から解放され、職業も自分で選べる自由を持っている。だからこそ、労働者が売れるのは労働力商品のみなのだ。そして、企業(資本家)は、この労働力商品を、「賃金」という形で購入し、生産活動を行う。ここで決定的に重要なのが、「労働力が作り出す価値と労働力商品の価値は違ってくる」ということである。


「労働力商品の価値」すなわち「賃金」の決定要因は、1)衣食住などの消費による労働力の再生産、2)労働者階級を再生産するための家族を養う費用、3)労働者が技術革新に追いついていくための教育費用である。これに基づいて企業は賃金を支払う(労働力商品を購入する)。しかし、実際に労働力が生み出す価値は、通常、これ以上になる。これを「剰余価値」という。企業(資本家)はすでに、賃金という形で、労働力商品を購入しているので、これ以上、何も支払う必要はない。よって、「剰余価値」はすべて企業(資本家)のものになる。これを労働者側から見れば、自分たちの労働力によって生み出された剰余価値が資本側に搾取されるという構図になっている。つまり、生産の段階で賃金が決まってしまうので、会社がいくら儲かっても、その儲けが労働者に還元されることはないのである。


上記の仕組みから分かるとおり、資本とは常に剰余価値を増大するために存在し、絶えず自己増殖を繰り返す。では、労働力商品化から階級論がどう導かれるのか。これは端的に言えば、資本主義的な再生産が行われる中で、階級関係も再生産が行われるということである。階級関係がシステムの中に埋め込まれているというわけである。例えば、資本主義社会で、賃金というかたちで労働力商品を購入するプロセスに、「労働者の再生産」という要素が組み込まれている。なぜなら、賃金の決定要素の1つがそれだからである。また、資本主義社会の中に組み込まれている労働者は、賃上げ闘争とかをやって資本家に対抗しようとする。このこと自体も、自分たち自身を「労働者」として固定化することにつながり、資本の論理の中に巻き込まれていることを意味する。その結果としても、階級を再生産していってしまう。


このように考えると、資本主義は、資本の絶えざる運動を介して、それ自身として完結した(円環を描く)システムになったと佐藤は論じる。そして、資本主義では、誰が誰を支配しているかわからない。労働力が商品化し、商品交換を通じて階級関係が再生産されているからである。例えば、商品としての労働力は自由な契約のうえに成り立っているが、上記で説明したように、資本主義社会では、生産を通じて労働者が搾取される構造が潜んでいる。同様に、資本主義社会では、再生産というプロセスを通じて階級関係も埋め込まれている。どれについても、商品交換という形態が、生産という実態をがっちり掴んで、システムを作り上げていっていることが分かる。形態によって実態が包摂されていくところに資本主義の特徴があるのである。であるから、あえて言うならば、資本主義において社会全体を支配しているのは、ほかならぬ「資本」であるということになるのである。