積極的自由と消極的自由のパラドクス

自由とは何かというテーマにおいて、佐伯(2004)は、アイザイア・バーリンによる「積極的自由」と「消極的自由」の区分を紹介している。佐伯によれば、バーリンは、近代社会において区別されるべき問題は、「私はいったい誰によって支配されるのか」と、「私はどこまで支配されるのか」であると論じた。前者は、誰が主権者かという問題で、後者や、支配者が誰であれ、「私」の領域はどこまで守られ、どこまで支配に委ねられるべきかという問題である。


バーリンの言う積極的自由とは、「私は誰に支配されるのか」に関連したものである。私が自由であるためには、私が私の支配者でなければならないとなれば、一国レベルでいえば「人民を支配するものは人民だ」という民主主義の原理が出てくる。この際、人々は、よりよい状態に向かいたい(=よりよい社会を作りたい)から、日常の快楽や安逸を求め欲望や感情のままに動く人間を、高次元の理性によってコントロールする必要がある。つまり、自己実現のための資源のコントロールを、集団レベルで行うということである。この際、まずは自らを律して自立し、さらにはある理念の実現を目指して集団を形成して自己実現を図る。これは政治への強い参加や運動を必要とする。つまり、運動を通じて集団の意思や理想を実現していくところに自由があるという発想である。積極的自由とは、自らの意思の実現のために政治に積極的に関わるべきであり、民主主義が引き起こす権力闘争からも身を引くべきではないという立場につながるのである。


一方、バーリンの言う消極的自由とは、「私はどこまで支配されるか」「どこからが私の意のままになる領域なのか」に関連したものである。別の言い方をすれば、「○○からの自由」である。「私の領域」は、法や政治権力、共同体や社会の介入から解放された領域であり、近代人はこの指摘領域の不可侵性を求めるという。つまり、消極的自由は、プライベートな領域への干渉を排除しようとする自由の追求である。そして、バーリンは、消極的自由のほうが重要だという。なぜなら、積極的自由は、ある種の理想や正義の実現、理性的な秩序の実現を目指すが、そのこと自体が全体主義へと転化しかねないし、私的領域の不可侵性という消極的自由を脅かすようになるからである。積極的自由が押し進めるのは、ひとつの価値観、ひとつの世界観であり、そこで想定されている正義や理想に共鳴しないものが排除されたり賛同を強要されるようであれば、消極的自由が侵されてしまうわけである。近代社会では、個人の私的生活の多様性が増大するが、私的生活に対して、権力が介入し、個人の信条とは異なるものを強制してはいけないという発想が、消極的自由の重視という視点の根拠となっている。


しかし、佐伯は、この「消極的自由」の「積極的実現」という動きが起こっていることを指摘する。別の言い方をすれば、「消極的自由」が、あたかも「積極的自由」のように追求されているというのである。例えば、アメリカは、自由や民主主義の世界化という命題を少なくともひとつの名目として同時多発テロ以後に、イラクへの攻撃に踏み切った。抑圧からの人民解放という名目は、個人の私的生活を権力から保護するという「消極的自由」のために戦争を仕掛けたことになる。消極的自由の実現が、何か絶対的な正義にされてしまい、積極的自由のように追求されているという矛盾に陥っているわけである。