アメリカによって生み出された「消費社会」の本質

佐伯(2015)によれば、もともとアメリカの資本主義社会は、個人主義的で自由な経済活動であった。ヨーロッパからの移民たちがやってきたアメリカには豊かな土地があった。人々は土地財産を手にして商品をつくり、市場へ出すことでさらに財産を膨らませ、自力で生計を立てていくというものであった。しかし、20世紀に入ると、移民社会の形成や、西部フロンティアの消滅によって、本来のアメリカの資本主義の精神が大きく変貌していったという。これを一言でいうならば、土地財産の上に自由な経済を基礎づけるのではなく、機械技術と大企業のような集団的組織の上に経済を基礎づけるものであった。これにより、現代文明としてのアメリカを特徴づける技術主義が出現したというのである。


例えば、アメリカによる技術主義の典型として、フォードによって大量生産方式が大規模に導入された。フォードでは、工場で働いている労働者の賃金を上げ、労働者が車を買えるようにした。その結果、自動車の需要が増え、大量生産が可能となった。大量生産が可能になれば、単位当たりのコストが低下し、製品の値下げが可能となる。これはいっそうの需要の増加をもたらすし、生産性が向上するので労働者の賃金を高く支払える。こうして労働者の生活条件が改善し、より豊かになって、よい生活ができるようになる。このように、大量生産、大量消費によって消費社会を作り出すことで経済を拡張していく循環メカニズムが成立し、これが戦後の日本をはじめとする先進国、中心国の標準的なモデルとなったのだと佐伯は論じる。


フォードが徹底したテーラーシステムでは、作業の機械化のみならず、人間の作業の完全な分割、合理化、分業化を徹底して時間管理をするという合理的な労働管理、合理的な経営をもたらした。これが、人間を生産のプロセスの一環として組み込んで管理するという「技術主義」である。生産プロセスの全体、人間の作業、人間の活動を「方法化」し、技術的にマニュアル化し、合理的に管理していくという発想である。技術主義的な合理性・客観性はすべての人に共通で普遍性がある。それゆえ、アメリカは移民を積極的に受け入れ、アメリカの方法を教育することで「標準的なアメリカ人」を規格化し、大量生産していったわけである。ちなみに、アメリカでは、教育においても技術主義によって完全にプログラム化され、マニュアル化され、方法化されたと佐伯は指摘する。


さらに、GMのスローンは、大量生産、大量消費というフォードのコンセプトを生かしつつ、年次改良モデル(モデルチェンジ)とグレードによる車種のランク付け(大衆車、中級車、高級車)を導入し、人々の消費欲望を方法化してしまったのだと佐伯は論じる。言い換えれば、GMは、フォードの生産工程における徹底した技術主義的なプロセスに、人々の欲望をも巻き込んでいったわけである。こうして人々が方法化され階層化された自動車世界の中に入っていかざるをえない。まずは大衆車から入り、最終的には高級車に乗るといったように、欲望が車によって適切に分類され方法化されている。欲望と社会的階層が対応づけられ、自動車が両者を結び付ける象徴となったわけである。


車のみならず、さまざまなモノの意味が人々の社会生活と不可分となり、ライフ・スタイルというものが現れてくる。消費は、ライフ・スタイルをつくり表現する象徴的行為となる。つまり、消費者そのものが、この方法化によって管理された社会の中に入り込んでしまったわけである。ここにはじめて「消費社会」なるものができあがるのだと佐伯はいう。「消費社会」そのものが技術的思考の下に置かれ、方法化された秩序づけられる。モノはただ人々の気まぐれな欲望に晒されているのではなく、ランクづけられ、社会的に意味づけられ、象徴化され、相互の関係によって体系を成しているのだという。それがいわばマニュアルとして人々の共有されているから、欲望が方法化され、技術的に管理されているといえる。


そして佐伯は、アメリカが生み出した消費のマニュアル化としてどうしても無視できないのがマクドナルドだと指摘する。マクドナルドは、簡単にいえばフォードが開発した大量生産方式を食生活に持ち込んだ。マクドナルドほど見事に方法化され、マニュアル化され、技術主義的なものによって支配された消費の場はないという。生産工程の流れ作業的管理を、食生活という消費プロセスまで拡大した。この徹底した方法によってマクドナルドは世界に進出することができた。方法化することで、特定の場所とか文化に囚われない、一見したところ普遍的なものをつくりあげた。そしてそれによって世界化が可能となり、マクドナルドはアメリカを超えてしまったのだと佐伯はいう。