近代的精神の起源とパラドクス

佐伯(2014)は、近代は、決して合理的精神や自由を求める欲望によって、中世封建社会を打倒して出てきたわけではないという。むしろ、中世世界の崩壊の中から、「確かなもの」の足場を求めようと古典古代的政治思想や市民精神、プロテスタンティズムによるキリスト教の聖書信仰が呼び戻された結果として整理すしたのだと論じる。とりわけ、キリスト教が基盤となって西欧近代を生み出し、支えようとしたのだという。


佐伯によれば、近代的市民社会は、あくまで個人主義的な意識を持った個人から成り立っている。その個人とは、合理性の意識を持ち、同時に自由や平等の理念を持っている。そして、こういった個人主義は、キリスト教とりわけピューリタン的な強い倫理観、従順さ、正直さ、勤勉さから出てきている。こういった合理的で倫理的な生活の組織化が近代の特徴である。つまり、近代化とは、人間の活動を全体として合理化することであるが、この合理主義が著しく示されるのが、近代科学であり、合理的な資本主義に代表される経済活動である。とりわけ、経済については、宗教的・倫理的な主体としての個人が結果として合理的な富の築盛を生むという形で、合理的な経済人にごく自然に移行していったのだと佐伯は指摘する。


とりわけピューリタンの考えでは、個人が成立するということは、神を内面化した主体が自己制御することによる。自分自身の欲望を自分でコントロールするなど自己鍛錬の結果として自己制御、自己抑制という強い倫理的精神が育ち、こういった「誠実さ」が、社会の場で客観的な形で表現され、隣人愛の実践として、社会に還元されなければならない。合理的で倫理的精神が制度化され、資本主義や官僚制が成立する。しかし、ウェーバーによれば、近代的社会が合理化され、組織化されるにつれ、近代社会を下支えするはずの本来の宗教的倫理も見失われ、組織が硬直化し、人間は、ただ組織の歯車のようになり、野蛮な社会になっていくのだと佐伯はいう。例えば、宗教的倫理精神に裏付けられた誠実性、禁欲性、勤勉性は失われ、人々の精神が単なる自己利益追求といった野蛮な精神へと変形されてしまうわけである。


近代化の過程で、宗教的信仰に支えられたキリスト教個人主義が、その宗教的な「確かさ」を失って、世俗的個人に変わっていく。自己制御の支柱となっていた宗教的な絶対者というものを取り外してしまうと、人間は分裂していかざるを得ない。自己制御を続けるための「確かな根拠」を探さねばならない。つまり、近代的自我とは、もともと神を内面化することによって生み出されたのにも関わらず、近代社会は、その神の権威を失墜してしまい、人間にとっての「確かさ」を失ってしまった。一方で、ウェーバーが考察する合理的な精神を制度化した官僚制や、フーコーが指摘する「監獄の誕生」の議論のごとく、近代社会において合理的に設計されたシステムに人間が取り込まれて、人間は、その合理的なシステムに管理されてしまうことになる。


このような近代においては、確かさを失うことによって、ニーチェのいう「ニヒリズム」(あらゆるものは無価値である)という認識につながることを佐伯は示唆するのである。この考え方のもとでは、世界にしても、歴史にしても、ある目的を持っていたり、ある意図を秘めていたりするものではなく、ただ事実の羅列にすぎなくなる。つまり、世界観や歴史観は無意味である。存在するのは多様な事実や出来事の集積である。近代科学、実証科学はそのような前提から出発し、「世界観」「人間観」「歴史観」とは切り離された知識を追い求める。つまり、近代科学、実証科学は、人間の生や活動に対する積極的な指針も、価値判断の根拠も提供できない。つまりニヒリズムにほかならないことを佐伯は示唆するのである。