現代における実証主義と情緒主義のパラドクス

現代は、科学的思考、実証主義の影響を強く受け、ものごとの客観性や普遍性を重視すると言われる。であるならば当然、現代社会においても、「何が正しいのか」「どちらが正しいのか」といった、我々にとって重要な判断や意思決定を行う際には、客観性や普遍性を最重視すべきであろうという見解が導き出されそうである。しかし、佐伯(2004)は、逆に、リベラリズム自由主義)では特に、多くの問題が「価値判断」を伴うものであり、価値の問題は人それぞれに関わっているから、個人の主観の問題、個人が自由に選択するべき「好み」の問題に過ぎないという「主観主義」「情緒主義」に結びついていると指摘する。ここで重要なのは、現代では、一見すると矛盾していると思われる「実証主義」と「情緒主義」が結合して補完的になっているのであり、それはそもそも、現代の実証主義精神の帰結でもあるという佐伯の主張である。


佐伯によれば、現代科学の基礎哲学の基盤となっているのが、論理実証主義であるが、これに影響を与えているのが、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」である。論理哲学論考では、世界とは、結局、言語で論理的に明晰にかけるものであり、それだけが世界である。つまり、世界は言葉で書かれた論理的体系と対応する。であるから、哲学は、世界を論理的に記述し、混沌としたものを明晰な思考に置き換えていく論理活動である。このように考えると、客観的な世界とは論理的に明晰に語れるものでしかない。その結果、ヴィトゲンシュタインは「語り得ないものについては沈黙せざるを得ない」と言ったわけである。倫理・道徳というような「価値にかかわる問題」は論理の形式にあてはまらないので、沈黙せざるを得ない。言い換えるならば、われわれの知り得る世界は、論理で記述される「客観的」な「事実」の世界のみであって、倫理・道徳・宗教といった価値の世界とは峻別されなければならないということである。


このような背景から、現代科学や実証主義では、事実によって検証できるものだけが客観性を持ち、科学の対象となるとする。一方、価値判断はそれぞれの人の主観にかかわるものであって、事実によって検証することはできないから、価値判断や価値に関わる命題を非科学的として排除しようとする。このように、実証主義精神の帰結として、「事実」と「価値」の峻別が起こり、それが、現代における「自由」についての独特の見方につながっていると佐伯は指摘する。まず、実証主義の帰結として、「価値の問題は人それぞれに関わっているのだから、それは個人の主観の問題にすぎない」という「主観主義」が導き出される。それが、価値は人によって違うという「価値相対主義」にもつながる。そして、何を善と考えるか(価値判断)は、その人の好みもしくは趣味の問題だということになる。すると、倫理や善の問題は、個人の「自由選択」の問題となる。例えば、ある行動が道徳的なのか非道徳的なのかといった価値判断は客観的にできず、すべてが主観であり、それは個人の情緒や趣味の反映だと考えられることになる。そこに、自ら欲望や好みに従ってある行動を選択するという「選択の自由」というリベラリズムの決定的な観念も浮上してくるのだと佐伯は言うのである。「選択の自由」は、その人にしかわからない主観的な情念や欲望を実現するための条件だからである。


つまり、佐伯によれば、現代の自由という考え方の基底にあるもののは、何よりもまず、価値についての主観主義または相対主義であり、その帰結としての情緒主義ということになる。よって、現代においては、一方で、事実の客観性ということがことさら強調されると同時に、他方では、価値の評価や判断についてはきわめて情緒的になるのだと佐伯は論じるのである。事実の領域は実証主義であり、価値の領域については自由選択であるというこの考え方は、カントによる経験の世界と倫理的世界の区別から始まる近代的精神の1つの発露でもあり、実証主義と情緒主義の奇妙な組み合わせこそ、現代社会の大きな特徴であるというのである。。