出口(2014)は、文系理系を問わず受験生が受けるセンター試験のような試験においても現代文で小説が出題されるのは、なにも文学的センスを測定しているわけではなく、客観的分析力や思考力を測定しようとしていることを示唆する。むしろ小説文であるからこそ、客観的分析力をテストするのに適していることさえも示唆する。それゆえに、小説問題を含め、厳選された入試現代文の良問は、社会人などが現代を俯瞰する知と本物の思考力、とりわけ現代に不可欠な客観的分析力を鍛えるのに最良の教材であるというのである。それはどういうことか。
娯楽として小説を楽しむ分にはどのような読み方をしようが個人の自由であろう。しかし、とりわけセンター試験において入試問題として小説文を出す限り、悪門を出題することはできないと出口はいう。入試問題は学力を測るものである。よって、小説問題で測定しようとしているのは、文中にある客観的な情報から、傍線を引いた登場人物のセリフの心情を答えたりするものなのである。あくまで客観的分析力を測っているということなのである。出口によれば、そもそも、入試問題は長い小説の途中の一か所を切り取って作られているわけだから、その時代がどんな時代で、主人公がどんな人物なのか、ほどんど情報が得られない中で受験生が登場人物の心情を答えることになるのである。ここが試験としてのミソで、客観的分析力を測定しているという事実を理解せず、普通に小説を読む感覚で問題文を読んでいる人は、出題分の内容をいくらでも主観的に解釈することが可能なので、そのような勝手な解釈で解答をしてしまい、間違えることになるのである。
次のように考えるともっとわかりやすいかもしれない。われわれは主観を通じて世界を見ているため、実際に見ている世界は虚像であり、歪んでいる。文章にしても、目の前のテキストを必ずしも客観的に読んでいるわけではない。しかし、どんな世界であっても、それを自分の「主観」という狭いフィルターで変換してしまうと、結局すべては自分の主観的世界の中で消化され、その世界は何一つ豊かになることはないと出口はいう。そこで必要なのが客観的分析力なのである。入試現代文の評論問題であれば、それが論理的思考力を測定しようとしていることは明らかなので、受験生も意識的にそのように文章の論理を追いかけて理解した上で解答しようとするだろう。それに対して、小説こそ、客観的分析力を身に着けた受験生がその学力に基づいて主観的な自分を排除して解答しているのか、あるいは、客観的分析力が身についていない受験生が客観性を無視して「主観」という狭いフィルターで文章を自分なりに勝手に解釈してしまう傾向があるのか、どちらなのかが如実に分かるというわけである。現代社会に求められる能力、そして正解を得るのに必要な学力は前者であることは明らかである。
繰り返すが、文学作品として小説を読む場合は、通常1ページ目から順次読み進めることで想像力を働かせ、脳裏に浮かぶ自分が体験したことのない世界を楽しむというような読み方でも問題はないだろう。しかし、入試問題でとして小説を出題する場合はまったく違う目的に基づいているということなのである。