読解→鑑賞→批評の関係

高田(2014)は、文章表現を前にして、人間の心の動きは、読解―鑑賞―批評という順序をとるという。もちろん、読解は自然に鑑賞につながり、鑑賞は自然に批評につながるのでこの3者はしばしばあいまいな形で混在することも認めるのだが、あえて3つに区分して考えようとしている。


まず、「読解」とは、次の2つの関係についての課題を解くことだと高田はいう。1つ目は「言語とそれが差し示す事物との関係」で、2つ目は「1つの語と他の語との関係」である。現代記号論に当てはめるならば、第一の分野は意味論であり、第二の分野は構文論である。この2つの分野を明確に把握することが読解なのだという。


言語というものは、文字による表現でも音による表現でも、それ自体は物理的な事象である。例えば、「橋」という語と、それが指し示す「橋」という物との間に生じる1つの因果関係は決して直接的・物理的な因果関係ではない。言語とそれが指し示す事物との結びつきや、言語とその知覚、事物とその知覚の結びつきは、特定の人間のそれぞれの間に形成された約束なのだと高田はいう。このような社会の約束を個人の主観によって曲げたり変化させてりすることは許されない。したがって、読解という営みは、あくまで、客観的に、対象である文字・言語を自分の外に置いて、その文字・言語に負わされている社会的約束を忠実に把握することにほかならないのだというのである。


次に、「鑑賞」においては、「言語とそれを使用した人間との関係」と「表現者と読者との内的関連」が重要な性格となると高田は示唆する。読解では、言語自体の解明(構文と言語が指し示す事物との関係)が問題であったが、鑑賞の場合は、「誰かによって」のほうが問題となる。例えば、文学について考えると、文学一般に共通する基本的性格は、万人の共感を欲する作者の心情だという。よって、作者の表現が自分の内にある感銘をおぼえるかどうか、表現者の心が、自分の心とつながりを持つかどうか。これが鑑賞が問題とするところなのである。つまり、鑑賞というのは、ある表現を、読解の上に立って自己の内面に取り入れることである。


そして、「批評」に関しては、鑑賞によって表現を自己の心の内に取り入れようとする際、「対象を自己の内面にどう配置するか」「評価の客観性」を念頭に置きながら、鑑賞の結果を表明することである。批評は基本的には対象の肯定であるべきだが、「つまらない」「おもしろくない」「間違っている」などの否定的表明も含む。例えば、ある人の精神の内側に、これまでの読書体験から得られた、種々様々な表現の秩序だった蓄積がある。その秩序の中に今回の表現を位置付ける。つまり配置する。ただしこのような内的世界における配置は、あくまで主観的批評である。このような主観的批評を、不断の自己批判(自己の精神とその活動とへの不断の反省)を通じて客観的批評に高めていくのだと高田はいうのである。