「意味のウェブ」が可能にした想像上の秩序

ハラリ(2018)は、人間(人類、サピエンス)が世界を支配しているのは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブ、すなわち、彼らに共通の想像の中にだけ存在する法律やさまざまな力、もと、場所、のウェブを織りなすことができるからだと指摘する。人間以外の生き物は、この世界に実際に存在しているもの(客観的な世界に存在するもの)しか想像できない。サピエンスのみが、アメリカやグーグルや欧州連合のような、見たことも匂いを嗅いだことも味わったこともない架空のものを想像できるのだという。この意味のウェブのおかげで、人間は、十字軍や社会主義革命や人権運動を組織することができたのである。これは、サピエンスの周りには、客観的現実でも、主観的現実でもない、共同主観的な現実があるからである。それは単に個々の人間が信じていることや感じているものではなく、大勢の人のコミュニケーションに依存した現実なのである。


人間(サピエンス)のみに、共同主観的な意味のウェブが存在している大きな理由は、サピエンスが言語を使って完全に新しい現実を生み出すことができるからである。共同主観的な意味のウェブの正体は、最新の生命科学をもってしても、遺伝子や、ホルモン、脳内のニューロンに還元することはできない。つまり、現段階の科学においては、純粋な生化学的見地から共産主義や十字軍の遠征を説明することはできないということである。生物学的なメカニズムが、意味のウェブや虚構を説明するというよりはむしろ、人間の虚構が遺伝子コードや電子コードに翻訳されるにつれて、共同主観的現実が客観的現実を呑み込み、地球上でもっとも強大な力となりかねないとハラリは指摘するのである。もし人類の将来を知りたければ、ゲノムを解読したり計算を行ったりするだけでは十分ではなく、この世界に意味を与えている虚構を読み解くという人文科学的なアプローチも絶対必要なのだというわけである。


そして重要なのは、共同主観的な意味のウェブは、架空の現実に過ぎないわけだから、歴史と共に変化していくということである。つまり、歴史が展開していくということは、当時の人々が意味のウェブを織り成し、心の底からそれを信じているものの、遅かれ早かれそのウェブはほどけ、別のウェブが編まれるようになることである。後から振り返れば、いったいどうしてそんなことを真に受ける人がいたのか理解できなくなるとハラリはいうのである。例えば、十字軍の遠征を可能にした「異教徒と聖地」「天国に至ることを期待して十字軍の遠征に出る」などは現在のイングランドの人の大半にはまったく何の意味ももたない。同じように、今から100年後には、民主主義と人権の価値を強く信じる私たちの気持ちも、私たちの子孫には理解不能に思えるかもしれないというのである。


ハラリによれば、そもそも「意味」というのは、大勢の人が共通のネットワークを織り上げたときに生み出される。ある事を有意義だと考える理由は、友人や隣人たちも有意義だと考えているからである。あるものが存在すると信じる理由は、友人や隣人たちもそう考えているからである。人々は絶えず互いの信念を強化しており、それが無限のループとなって果てしなく続く。互いに確認し合うごとに、意味のウェブは強固になり、他の誰もが信じていることを自分も信じている以外、ほとんど選択肢がなくなるという。しかし、それでも何十年、何百年もたち、社会を構成する世代が交代していくうちに、意味のウェブはほどけ、それに代わって新たなウェブが張られるわけである。歴史を学ぶというのは、そうしたウェブが張られたりほどけたりする様子を眺め、ある時代の人々にとって人生で最も重要に見える事柄が、子孫には全く無意味になるのを理解することだとハラリは主張するのである。


要するに、私たちを取り囲む世界、そして社会秩序の前提となっている現実の多くの部分が、意味のウェブで織り込まれた共同主観的現実である。共同主観的現実は、世界中の人々によるコミュニケーションで強固に編まれたものであるから、凝り固まってしまっており、そう簡単には変化しない。しかし、私たちが存在を信じて疑わないようなこと、当たり前だと思っていることでも、もともとは想像上の産物であり、架空のものであり、客観的現実なのではないのだから、やがてほころび、ほどかれ、消失する可能性を持っているということを認識することが大切であろう。どこかにほころびがあれば、あるいは誰かがそのほころびを作ったり穴を大きくしたりするならば、そこからほどけていくことも十分に可能なわけだし、それが、世界や社会を変革するきっかけとなるのであろう。