西田幾多郎による「無私」の思想

佐伯(2014)は、西田幾多郎の思想を解説する中で、日本の思想には、どこか「私」を消し去り、無化していく方向が色濃くただよっていると指摘する。日本語で、しばしば主語を省略したり主語を重視しないように「主体」というものを打ち出さない。これは、「私」という「主体」が決定的に重要で、主体が自然や社会に働きかけ、自然をコントロールしたり理念社会を実現しようとする西洋思想とは異なる。これに関連して佐伯は、西田幾多郎による「純粋経験」の概念を説明する。例えば、桜の花を見た瞬間にアッと息をのんだ時、「私」という主体と「桜」という客体が区分される以前の、両者が融合したような経験だけがある。これが「純粋経験」である。これらは日本の思想の特徴とどう関連しているのだろうか。


佐伯によれば、西洋思想では、個物といえども、そこにはすべてを包摂する「存在」そのもの、言いかえれば「神」が宿っているとする。したがって、私の心の中には、絶対的存在者としての神が宿っている。それに対し、西田が考える日本の論理では、例えば、万全に定義することができない「私」は、潜在的にはあらゆる属性や性格が「於いてある場所」であり、様々な状況の中で様々な行動を起こす「多様な働きの集合」だと捉えられる。これは、すべての一般的概念を包摂するがゆえに「実体」とはいえず「無」にほかならない。「私」を掘り下げ、その奥を覗きこめば、ただ「無」に行き着くというのである。これは、「私」や「我」を消し去り、自己の内面を深く覗きこむことで、根源的な精神の状態というべき「無」あるいは「絶対無」に接近するという発想につながる。


また、日本の精神では、私自身を含め、いかなる「物体」「モノ」もいずれは消えてなくなると考える。これは決定的な宿命、さだめである。その論理でいけば「モノがある」とは、「・・・に於いてある」ということであり、究極的には「無の場所」に於いてあるということになる。モノの本質は、いずれそこへと帰っていく「無」の世界にこそある。「私自身」も、いずれ確実に「無」へと帰する。つまり、現在の「生」は「死」によって支えられているといえる。このことから、いったん私を滅して「無」へと送り込むことで、そこから改めて私の本当の姿が見えてくる。つまり、自己とは「絶対無の場所」に自己を映すものだというわけである。そして同様の論理により、すべての物的存在は、その背後に「無」を漂わせる。


佐伯による解説によれば、存在を存在たらしめているのは、西洋思想が考えるように、なにか絶対者のような究極的存在ではない。最終的にすべてを包摂する「絶対無の場所」というものを考えれば、すべての存在は「無」から生まれ、「無」に帰していく。「無」から出てきて、「無」に帰っていくだけである。それだからこそ、私たちは、ある場所であるモノとほとんど偶然の出会いを経験できるという意味で「一期一会」や「縁」という言葉を使う。そして、そこには「悲哀」も伴う。これらのことから、西田幾多郎が強調する日本文化の核心とは、己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神なのだと佐伯は解説するのである。