現代文とは何か

現代文とは、なんらかの意味において、現代の必要に答えた表現のことだと高田(2009)は定義する。この定義は「(なんらかの意味において)現代の必要に答えた」という部分と「表現である」という部分に分けられる。まず、「現代の必要に答える」という部分については、高田は「現代の必要」に答えようとするのが「現代の思想」であるという。つまり、現代文の根底をなすものは、現代の思想なのだと高田はいうのである。さらに、そういう現代の思想は、ルネサンス以後のヨーロッパにおいてその典型を示したいわゆる近代精神を根底としているともいう。


つぎに、「表現である」という点についてであるが、「表現(express)」は、もとは「しぼりだす」という意味である。よって、あらゆる表現は、それ自体において、筆者の内面に何らかの要求があったことを語ると考えてよいと高田はいう。なかでも、入試現代文のほとんどすべては、公刊さえた書物・雑誌・新聞等から切り取られたものである。つまり、読者を想定して書かれた文章であり、高田はこれを「公的表現」と呼ぶ。すなわち、公的表現は、「読者を予想し、事実読者を持った表現」ということである。


つまり、現代文の多くは、公的表現の性格を有している。筆者の願いが公的表現の性格を形成するのである。そして、いわゆる論文に限らず、文学作品にも、随筆や紀行にも、あるいはレポートや報道文にもはっきりとみられる性格として、すべての公的表現には、自分の立場を読者に伝え、それを読者に認めさせようとする筆者の願いが根底に流れていると高田は指摘する。つまり、筆者が自分の表現にこめた願いが、その表現の公的性格を形づくることになるのである。筆者の願いは「1人でも多くの読者に読まれること」「1人でも多くの読者に理解されること」「1人でも多くの読者に共感されること」の3つに整理することができると高田はいう。


次に、現代文を読む主体に視点を移して考えると、現代文を読む者の中になくてはならない2つの前提があると高田はいう。1つは、読者自身の「問題意識」すなわち物事を問題の対象として取り上げる意識である。そのことがらを深く知ろうとする心の存在を反映した意識である。筆者の関心する問題について、読者もまた相当の関心を持っているという点が前提としてあるというわけである。


もうひとつの前提は、高田が「内面的運動感覚」と呼ぶもので、言い換えれば「論理の感覚」である。わたしたちが、文章を理解したというとき、そこには「享受」と「批判」がある。享受とは、表現を通じて筆者の願いを素直に受け取り、それを完全に理解するまでの心の働きである。それに基づき「批判」を行うわけであるから、文章理解には、正しい享受が必須となる。それを可能にするのが「内面的運動感覚」である。


静かな黙読を続けてゆくにしがたって、われわれの目の前に立ち現われては消え去ってゆくことばの流れから、自然に、明瞭に、ある思想や感情がわれわれの心に伝わってくる。そういう状態においては、われわれの心あるいは頭は、生き生きと働き、鋭敏に働く。だから、そこに一寸でも不合理、不調和、不均衡があっても、直ちにそれを感じ取り、知り分ける。そういう人間精神の働きを、論理の感覚と高田は名付ける。実際、現代文の文章では、論理が発展的に展開する。このような発展的な文章を、生き生きと理解するための心の働き、精神の活動は、一種の運動感覚のようなものである。高田によれば、発展する表現を発展として把握する働き、流動する表現を流動として把握する働き、それを「内面的運動感覚」というのである。