竹田(2004)は、言語の形式論理的分析を主たる方法とする現代言語哲学は謎が謎を呼ぶようで決して解決しない袋小路になっているが、現象学的方法で言語を捉えるならば、言語の本質はほぼ明らかになると論じる。例えば、現代言語哲学で登場する「言語ゲーム」では、言語というルールの体系を正確に記述して研究しようとするが、ゲームの本質というものは単にそのルールを正確に記述するだけではけっして把握できないという。ゲームの本質は実際にプレイすることを通じてはじめて把握できるものである。つまり、ゲームを行う主体が存在しなければならず、主体の経験だけがゲームの本質を把握することができる。このような視点に立つのが現象学である。
現象学的な言語理論では、言語を「信憑構造」として捉える。これは、聞き手が、発語された「言語A」を介して、つねに発語者の「言わんとすること」をめがけ(志向し)、その確信が成立することで言語行為がそのつど成立するという図式である。言語の多義性や規則の規定不可能性の問題は、じつは現象学が取り扱ってきた「認識問題=信憑構造」の言語論的変奏形態なのだと竹田は言う。
現象学的に見れば、言語には「一般的意味」と「企投的意味」がある。言語行為は、一般に、言語によって他者と世界を共有しようとする関係的な試み(企投)であって、人は「語の一般的意味」を利用して自分のそのつどの「企投的な意味」を他者になげかけようとする。言語の、一般的意味(辞書的意味)は、企投的意味(言わんとすること)を源泉とし、発話行為の積み重なりと集合的な痕跡によって形成されたものである。
たしかに人間の意味の世界は「言語」によって編まれているが、私たちは生の経験の中で、決して言葉によって表現できない(前言述的な)豊かな「意味」の世界があることを知っている。私たちはこの前言述的な感覚に押され、それを他者と共存しようとする気持ちにうながされて、はじめてそれを「言語化」する。つまり、実存の世界が総じて欲望相関的に分節された前言述的な意味の世界であることを土台として、人間世界の「意味」の秩序が言語というものによって分節されているといえるだと竹田は解説する。この根拠関係が「意味」を理解することのポイントなのだという。
実存的企投に発する他者との共通了解の共有(分有)というということが、発語することの本質的な動機であり、それが、現実言語における「企投的意味」の本質である。現実言語にはそのつど「企投的意味」を含むが、それは言語の「一般的意味」とズレる、という事態が、言語的多義性の「謎」の正体だと言えよう。